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私(メール上ではブログ主と掲載)と友人のOのメールのやり取りをのせるので、忌憚のない意見を聞かせてください!


文脈はOと喫茶店で話していて、その時、内田樹氏の著書について私が批判し、その後、彼と議論がかみ合わなかったため、私がその次の日に内田氏の著作を読んでその批判をメールしたというもの。
メールの内容に関しては、個人名はプライバシーの観点から伏せさせていただきました。それ以外はそのまんまです。




まず私のメールから。





                  Oへ

 この前君が言っていた内田樹という人の『下流志向』と『ためらいの倫理学』と『日本辺境論』を読んでの感想を言おうと思うので聞いてほしい。

 はっきりいって自己批判を欠く愚かな人間の戯言に過ぎない。根拠を順次挙げていくから読んで欲しい。


 まず、『下流志向』から。


 この本では、

①現代のニートが生まれた背景として消費者としての立場になれた子ども達がすぐに「意味」だとか「効果」だとかわかりやすく成果を求めることになれているため、本来労働や学習という成果があがるのに時間がかかり、かつ利潤が経営者の下に多く入るため本質的にアンフェアなものになじめなくなっていること。職場になじむ努力もしないでいるのは怠惰だということ。
②「自分」というものは社会の中で役割を担うことによって価値を初めて見出されるものであり、その認識を欠いた「自分探し」や「やりたいこと探し」などは本質的に無意味であること。そしてそのような人間が増えすぎることによって社会に悪影響がでること。一見華やかな仕事につくよりも、自分が目立たなくても社会を支える仕事にも意義があるということ。
③②と関連して以前のような相互扶助によって支えられてきた共同体が解体されたため、道場などを中心とした共同体を作って相互扶助を復活させることが急務であること。
④現代の社会は仮に高学歴であっても以前のように安定した職業に就けるとは限らなくなったことからリスクヘッジの発想が必要になったこと。

が主に述べられている。


間違ってはいないとは思う。だけど、基本的にこれは「強い人」「運のいい人」「元気がある人」「人間的な魅力のある人」だから言えることではないのかな?というのは、全体として③は述べられているけれど基本的には「自分で何とかしろ!」って発想だから。この要約以外の巻末のインタビューが収録されていて、30くらいまで働いていた女性が生きる意味だとか働く意味がわからなくなってアメリカにいったら多様な価値観があってホッして帰ってきて持ち直したということを質疑応答のときに内田氏にいったら、「よかったですねえ、それはニートの入り口だったのですよ」と(笑)のマークもなしでいっているのが気にかかった。内田氏の中ではニートとは基本的になってはいけないものなのだろう。だけど、そうやっていろんなことに疑問を持つことは必ずしも悪いことなんやろうか?僕からすればそういう人の方がむしろまともな気がする。そもそも、確かに「自分」というのは社会の中で価値をもつものであるということは確かにそうなんやけど、果たしてそれはどこまでリアルな意見なんやろう?ひたすら仕方がないから嫌な仕事をして付き合いたくもない職場の仲間との不愉快な飲み会に仲間はずれにされるのが怖いから自己投資に使えるかもしれない貴重な時間を割いてそれでも人付き合いのセンスがなくてその上休みもとれなくて、それでもある一定の成果をあげないまま解雇されて、その時点で天職なんかに十分な社会的な評価を獲得できなかった人はどうするの?それにリスクヘッジという発想は確かに必要だとは思うけど、それができる人は友達がいたり情報収集とかの能力があったりする人に限った話でないの?内田氏は「就業機会もあるのにしないのは悪い」ともいっているけど、Oも就職活動をやってみればわかると思うけど、相当程度偶然によるところが大きい。それにいくら「努力」しても日本の新卒採用システムが変わらない限り、景気の浮き沈みなんかでそこからこぼれ落ちた人は「努力」をしていないとみなされる。それに内田氏も結局、「成功者」だよね?別に「成功者」が何かを語ってはいけないとは思わない。だけど、「成功者」とは往々にして自分がしてきたことを絶対視してしまう。内田氏は明るいから仕事に恵まれて「楽しそうにしてれば仕事は向こうからやってくる」といっているけど、それは内田氏が元気があって能力があって魅力があるからできることなのでは?家族にも恵まれて東大でて頼りになる友人もいて最終的に大学教授になってる自分が運がいいのを自覚しているのか大いに疑問。あと、全般的にシステムに対する批判がほとんどなかったのは正直どうかと思う。中でも経営者が得するのは当たり前、労働とはそもそもアンフェアなものという言い分は明らかにおかしくない?だってこの前も問題になったけど鳩山なんて株だけで50億以上もってるんやで?明らかに不当でない?それに今のシステムやったら一つの会社で働かないと得をしない前提になっている。リスクヘッジということをいうんやったら、先行きがわからん将来に備えるためにも貯蓄するお金を労働者、特に若者が持てるようなシステムを創るのが労働者の「非」を責めるよりも先決なのでは?僕もOもいつニートになるかわからんことをおそれなあかん社会よりも、安心して二、三年ニートやれたり職場環境が少しでも改善された社会の方がいいと思わない? ③で一応共同体の相互扶助については述べられているけど、システムの矛盾を批判しない人がどれほどリアルにこのことを考えているのか、非常に疑問。それに何より、個人の自助努力という発想が仮にある面正しかったとしても、それは社会的・政治的にはどういう意味をもつかという視点から見て、体制に利用されないかということを念頭におくべきでない?彼の論調をみているとどうもこの視点が欠けているように思う。本人が仮にそういうつもりがなかったとしてもこの本を読んで「努力が足りないんだ」とか「よく考えなかった俺が悪い」とか「本当に嫌な職場でも自分を犠牲にして働かなくてはならない」とか自分責めてしまう、親が息子や娘を責める、またはその逆の事態を引き起こす原因にならないかな?日本はとりわけ労基署とか労働関係の団体に訴えるのがものすごく少ない事実を考えてみてもそういうメンタリティや事情があるということは知っておいた上でこういうことをいうことが果たしてどういう効果をもつかを考えるべきでない?僕には少なくともそういう配慮をしているようには見えない。『反貧困』っていう湯浅誠氏が書いている本を読んでみてほしい。これはそういう視点から書かれていてリアリティにあふれた本やから。



次に、『ためらいの倫理学』について。

 これについては愕然とした。

 まず、Oが前に言っていた高橋哲哉批判なんやけど、はっきりいってひどい。内田氏は「戦争はあくまで経済的・社会的な構造が原因であるから、個人の責任なんて問えるはずがない。ミロシェビッチに聞いても『おれはそんなつもりはなかった』というに決まっているだろう」というようなことが書いてある。はっきりいって、無知もはなはだしい。まず、確かに戦争は経済的・社会的な構造が原因なのは間違いない。だけど、個人の責任を問わないということがどういうことをもたらすか、日本の現在をみればわかるんやないの?例えば『蟻の兵隊』というドキュメンタリーがあるんやけど、その人は天皇裕仁の「神兵」として山東省に行って敗戦のとき、上官が兵力が欲しかった中国国民党の幹部やGHQと交渉して一人で逃げて置き去りにされた。なんとか帰国したが、国はその事実を認めず「自主的に残った」として補償を与えず、裁判を死ぬまでやったけど勝てなかった。この人がこの内田氏の戯言を聞いたらどう思うやろうね?この一事を見ても責任者の責任を明確に問わずに逃れるということがいかにひどくて痛みのわからない人間の暴言かわかるやろ?こんな例ははいてすてるほどある。
 次に、同じ批判文で高橋哲哉が在日朝鮮人作家の徐という人が「日本人が責任をとらないなら日本人は菊のパスポートも現在の生活もすべて捨てて難民になるべきだ」といったことを「きわめて正論」といったことに対して、「政治的な立場を強制されるのは嫌だ。それに従わない自由もある」といっている。戦前に日本に強制連行されてきてからの在日朝鮮人に対する日本の対応はどうだったのかな?「臣民」として散々労働者として線路やダムや国会議事堂、松代大本営を造らせておきながら、補償がいやだからと国籍を奪い、帰国事業で早く帰れという。その後も朝鮮半島の分断に積極的に協力して、かつ戦前からの朝鮮人を酷使してつくったインフラを活かして生んだ「繁栄」を謳歌しているくせに、差別し、歴史を隠蔽する。こんなことをされて怒らない方がおかしくない?それに、日本人という立場で責任をとること、それはこういう風に歴史を知ることでもいいし、カンパすることでも何でもいいのだけれど、をしないのに、「自由」なんてあると思う?他者の「自由」に何の配慮もしない人間が。はっきりいってこれをみてOがまだ内田という人間に好感を抱くなら感性を疑うしかない。

 最後に、『日本辺境論』なんやけど、これはさっきの批判を踏まえていうと、極めて時代感覚に疎いものとしかいいようがない。こんな風に何の疑いもなく「日本人」について歴史にふれることなく述べるということが果たしてどんな意味があるの?Oはこれを外国人がみてもわかるように書いているっていったけど、こんなもの外国人は読まないよ?それに日本人論ってそもそも欧米の基準を日本人が内面化したものに過ぎないのは過去の日本人論を読んでみればすぐにわかることや。他国との関わりの中で日本というものを捉えないと「外国人」に本当の意味のあることは書けないのでは?おそらく彼の中には「在日朝鮮人」も「在日中国人」も頭にない。Oは彼がレヴィナスの他者論を学んだといっているけれど、とてもそうは思えない。レヴィナスがいう「理解不可能な他者」というのも、お年寄りや周りの人に対しての気遣いというレベルではないと思うぞ?そんなレベルの「思想」でそんなに高名になれるのなら、ヨーロッパというのはどれだけレベルの低い野蛮な地域なんだろう。今までの批判からわかるかもしれないけど、内田という人間の知性と感性は信用しない方がいいのでは?あまりレヴィナスに対する正確な理解もあるとは信じがたい、、、。僕が言いたかった「他者」というのは、おそらく僕達日本人にとっての「在日」のような存在なんよ。日本人であるということで知らなくても良いという「特権」が生じるという事実。そもそも同じ言葉を話し同じものを食べ同じ生活習慣を持つ人間なのに。第一、「在日」とは日本人がいるから生まれているものだよね?なぜなら自分から「在日」なんていう名前をつけるということはありえない。あくまでも日本人が前提になっている。それになんで「日本人」「韓国人・朝鮮人」という風に強制的に分類されてしまうのか?グレーゾーンとかそれ以外の心のあり方もあるはずだ。自分達が当たり前だと思っていることが実は非常に差別的なことであり、自分が自分として生きることによって不要に悩む人や苦しむ人がいるという認識は持たねばならないと思う。



 以上で、本の批判は終わるけど、この前のOの発言で気になったことがあるので、それも述べておく。

 まず「帰化しないの?」というのは非常に無神経であるということは言っておく。相手が仮にいいといったとしても、日本人がこれを何の疑問もなしにいってはいけないよね?日本に対する憎しみもあったかもしれない。分断された故郷に帰れる日を待ってあえて韓国籍・朝鮮籍のままいるのかもしれない。差別される日本社会の中で「朝鮮人」「韓国人」であることだけが心を支えているのかもしれない。そもそも三つの「国籍」から選ぶこと自体に疑問を持っているのかもしれない。それ以外の理由があるのかもしれない。それに少し言ったけど、「帰化」というのは非常に困難であったかについては辛淑玉さんという人が言っていることなんやけど、「不動産をもつこと」「家族単位でせねばならないこと」など、特に前者みたいな難しい条件をクリアして、なおかつ散々いやらしい役人の質問に「はい」としか答えてはならず、名前も「よい日本人らしい名前」でないとだめというようなよくわからない、かつ同化を強制するような抑圧的な質問をする。辛さんは自分の名前の漢字が使用していい漢字の中に全部入っていて、読み仮名もなんでもいいといったにも関わらず「帰化」の許可はおりなかったらしい。
 これをみても「帰化」ということが在日朝鮮人・韓国人にとっては非常に不愉快なものである、もしくはイメージとしてあるといえるだろう。もちろん職業上の理由から、例えば船舶の荷物運搬の仕事をしていた人なんかは日本国籍を得ている人もいるし、改善されてきているのも事実。だけど日本人がそれを何の疑問もなしにいうことは非常に無知で失礼なことだろう。仮に相手は答えてくれたとして、そしてそれで何の不愉快な思いもしなかったとしても、基本的にはデリケートになるべきだ。そういう認識なしで関わられたら、こいつ表面上は仲良くしていても結局何もわかってないな、と思うだろう。一番大事なことは「帰化」という「同化」の選択肢をとらなくても平気で生きていけるように制度や自分や周囲の意識を変えていくことやろうと思う。


 最後に、これは僕個人の問題なんだが、非常に君の態度は無礼にうつった。最初に君が私淑している内田氏に対して十分な対応をしなかったことで、君の気分を害したのなら、非を先に認めておく。よくないと思ったものはよくないといった方がいいと思ったのがよくなかったのかもしれない。
 だが、基本的に君は僕を「論破」しようとするばかりで、こちらのいうことを聞こうとしなかった。「大人になれ」だの「勉強していないからだよ」というは正直傷ついた。何もこちらのことを考えてくれていないなと思わざるをえなかった。僕の就職活動のことを君は僕から聞いたか?僕がどういう姿勢で「在日」について学んでいるか見ようとしたか?僕は確かに言葉足らずだったかもしれない。だが、それはそれとして、明らかに君の上から目線の理詰めに対して答えづらそうにしている様子をみて、それに何も反応しなかったことは君に非がある。それに僕はお互い高めあえたらいいと考えはすれ、君のいうことを理詰めで全否定する気なんて毛頭なかったと断言しておく。それは態度にも出ていなかったかな?そういう態度で常に君と接していたのに、そう見えていなかったなら残念だ。
 僕が「今の君が書いたものなら読まない」といったのは、内容の問題ではなく、姿勢の問題だ。相手の意見を聞こうともせず、上から目線で論破することだけに集中しているような、または暗にそういう目線からみている人の書いたものを読む気になるかな?例えば、僕が君と何の知り合いでもない「ニート」が君に「大人になれよ」と直接的または間接的にいわれたら同じように感じるのではないかな?
それに僕が言葉に詰まったのは、何より以前にはそういった姿勢でなく物事に取り組んでいたのに、急に肩に力が入って理詰めで話をしようとするから、どう伝えようか、接しようかと考えてしまったからなんよ。おそらく、あの場で僕が君と同じように理詰めで「議論」をしようとしてもお互いにとって何も良い結果は生まなかっただろうし。ひょっとするとスウェーデンに留学して「日本人として」肩に力が入ってしまったのかな?少なくとも留学以前は「すべての人が難しい問題を考えなくていい」とか「『子ども』が増えて困る」ていうようなエセ・エリート主義とか「国家の視点からみてマイノリティが犠牲になるのは仕方ない。割り切るべきだ。」なんていう国家主義的(その実国家の都合のいいことをいわされているに過ぎない)なことは言わなかった。答えをあらかじめ決めてそこからスターとしてかたくなに守っている感じがした。僕にも留学経験は短期だけどあるから、「議論」というとディベートを想定してしまうことはわかるし、特に欧米人とか中国人はこういうタイプの話を好むのもわかる。だけど、それはそれとして、やっぱりどう伝えるかだとか、相手にも言い分はあるだろうとかいう姿勢は万国共通で必要であることも確かな事実やと思う。そうでなければなんと世界とは醜くて野蛮なことか!!



 最後は非難めいたものになってしまったかもしれないが、これだけは誤解しないでほしい。こんなにわざわざ読みたくない愚著を読んで批判したのは、Oならいいジャーナリストになれる素質があると思うからやということ。そうでなくてはこんな文章を長々と書かない。
 在日朝鮮人・韓国人のことについて色々偉そうに語っているけれど、はじめから僕だってわかっていたわけでは全くないしまだまだ知らなければならないことは山ほどある。むしろOと同じように「国家的な視点」だとか「特権的な地位」だとかを肯定して、はっきりいうと開き直っていた時期があった。だけど、就職活動を通してだとか、大阪で在日朝鮮人・韓国人が朝鮮戦争で同胞(両親・兄弟・恋人・親戚・親友)を殺すために使う武器を(仕事が選べなかったことが原因で)作らざるをえなくなった時、一分電車を止めれば同胞の1000人助かると信じて線路に寝て電車を少しでも長く止め続けたという話を聞いて、国家というものはなんとむごく、それに無知な自分とはどれだけ罪深い人間なんやろうと思ったんよ。それでこの問題に向き合うことなしで日本人として生きることも、海外にでても意味がないだろうと思って、リアリティをもって取り組むことができるようになった。マイノリティのことを「仕方がない」とOは言ったけど、これを聞いたら変わってくれることを私は信じている。少なくとも君は事実を知ったわけやから。

 長くなったけど、返信待ってます。忌憚のない意見をよろしく!




という私のメールに対するOの返信。








 ブログ主へ

 わざわざ内田先生の本を読み込んで感想をくれてありがとう。まず、本題の前に、最後にブログ主が書いていた「基本的に君は僕を「論破」しようとするばかりで、こちらのいうことを聞こうとしなかった」という点については確かにそういう感じがあったかもしれないと少し反省しています。まことに申し訳ないです。先生のことになると、やはり、感情的になるのかもしれませんね。「批判をするのならどういう根拠があるのかちゃんと示してもらわないと困るぞ」と(これは別に内田先生だけでなくほかの好きな先生が関わることでも同じことです。師匠というのは自分のアイデンティティーに関わってきますからね)。

 そして、僕も内田先生の『日本辺境論』を読んだのですが、残念ながら想像していたものより面白くなかったです。大風呂敷を最初に広げて「空気」とか「機」とか「きょろきょろ」とか、先人たちの抽象的なテーゼを掘り起こしながらの説明だったからです。しかも2章と3章についてはほとんど「学び」についての考察の焼き直しでした。もちろん、内田先生も前書きで「新しい考察はほとんどない」と書いているのでそこを批判するのはどうかと思いますが、久しぶりの書き下ろしで期待していた自分としてはもう少し新しい視点があっても良かったと思います。編集者の落ち度もあったかもしれませんね。たとえば、もう少し日本に特有な具体的なケースをピックアップしてそこから帰納的に「日本的なもの」という大きなテーゼを説明するほうが、まあちょっと社会学者っぽくなってしまうけれど、内田先生の独特の視点の新しさみたいなものが出てきたのではないかと思いました。 このままではつまらない方向に埋没してしまいそうで、正直にいうと、内田先生は早く大学を定年してもらい、じっくり休んでじっくり思想を熟成させてほしいですね。

 さて本題。『下流思考』は学びと労働についてよくまとめられた本だと思います。細かい部分で違和感を覚えるところもありますが、僕は総論として彼の考えに賛同しています。細かい部分というのはブログ主が言うように社会学的な意味での「構造」に対する批判です。やはり90年代の不況で若い人達が構造的に底辺に押しやられたことはデータから見ても明らかです。そこについてはもう少し言及されても良かったと思います。しかしながら、彼の最も言いたいことというのが、「働かないニートや学ばない学生というのは、市場のイデオロギーが浸透することによって生みだされた存在」であるということです。このテーゼについて論ずる上で、学びとは何か、働くとは何かについての原理的な分析に集中するということは当然のかとかもしれません。上記の批判は免れないかもしれませんが、でも、内田先生は、あとの書き物でその点については補足的に書いています(ここでは書きませんが)。

 僕は上でも書いているように、そしてまたブログ主と話したように、極めてアンフェアな経済構造についてはちゃんと国の政策として変えていくべきだと思っています。若い人だけが集中的に不条理を受け入れるのはやはりアンフェアです。ただ若い人がその時々の経済状況によって不利益をこうむるというのは世界レベルで起こっていることでもあります(福祉の厚いヨーロッパでも、若い人がインターン生として半年ごとに会社を転々と回されるケースが問題となっています)。日本の場合は歴史的に終身雇用制度とそれに伴う新卒採用制度を実践してきたので、その分で他国よりも酷いのかもしれません。でもこの制度を仮にもう少し柔軟なものに変えることが出来たとしても、状況はそれほど変わらないことでしょう。日本だけが必ずしも異常ではないという点はリマインドされるべきです。

 この点を踏まえたうえで、僕は内田先生のいうように「大人になりましょう」という主張は現実的な観点からやはり必要だと思います。「自分の価値観に正直に生きましょう」というのは必要なメッセージですけど、それが強くなりすぎるとそれは駄目でしょう。むしろ社会としては「多くを望んで生きないほうがいいぞ」ということを要請として出さないといけないと思います。というのも、結局は「共同体が生き延びれるか否か」という点に関わってくるからです。みんながみんな自分の好きなことができるわけではない。そもそも夢みたいなことはこれまでの時代で一度も無かったわけでしょう。「金がもらえるのに仕事が楽しいとかおかしいぞ」みたいな感覚だったのだから。もちろん、団塊の世代はそもそもみんな貧乏だったし、生活が向上するとか科学技術が発達するという「肌感覚」での「向上感」があったから、生きる上での希望が常にあったという点では我々とは違うでしょう。それを考えるとほんとに大変な時代だなと思います。でもそれは先にも述べたようにどこの国も同じような状況です。どこの国でも先進国であれば、若者は働きたくないし学びたくない。日本の場合はポストモダンへの進展が早かったから、その状況が少し突出しているでしょうが。僕の意見ですが、社会の標準的なメッセージとしては「こんな時代だから、小さく生きれば生きるのがいいんです」くらいでいいと思います。内田先生のいうように「『もうニートになった人』については、その人権を守る方途を考え、『これからニートになりそうな人』には『止めたほうがいいよ』」と説得するのが良いと思っています。それでも、「大きく生きていきたい」「自分の価値観を試してみたい」と思うような人は自らの責任でトライしていくでしょうし、そういう人のうち何割かが逸脱者として成功していくことでしょう。

 この本におけるブログ主の内田先生に対する一番大きな批判は「成功者による、現場のわかっていないえらそうな戯言」ということかもしれないけど、それは正当な批判ではないと思います。システムに対する言及がないという批判はブログ主のいうとおりかもしれないけど、成功者云々の批判は議論として「内容がない」ので成り立たない。前にも言ったけれど、それは批判としては天下無敵です。「金持ちには金持ちであるがゆえに抜け落ちてしまう視点がある」という主張は、どんな場合でも通用しますからね。

 ブログ主の次のコメントは少し気になりました。

「内田氏の中ではニートとは基本的になってはいけないものなのだろう。だけど、そうやっていろんなことに疑問を持つことは必ずしも悪いことなんやろうか?僕からすればそういう人の方がむしろまともな気がする。そもそも、確かに「自分」というのは社会の中で価値をもつものであるということは確かにそうなんやけど、果たしてそれはどこまでリアルな意見なんやろう?ひたすら仕方がないから嫌な仕事をして付き合いたくもない職場の仲間との不愉快な飲み会に仲間はずれにされるのが怖いから自己投資に使えるかもしれない貴重な時間を割いてそれでも人付き合いのセンスがなくてその上休みもとれなくて、それでもある一定の成果をあげないまま解雇されて、その時点で天職なんかに十分な社会的な評価を獲得できなかった人はどうするの?それにリスクヘッジという発想は確かに必要だとは思うけど、それができる人は友達がいたり情報収集とかの能力があったりする人に限った話でないの」

僕も、ニート的な生き方(定義が曖昧なので比喩的な意味で)は人生のある時期には絶対に必要だと思います。僕だって年に何回はぷらーと旅して何で生きているんだろうと思ったりします。一週間くらい何もしなかったときもありますし。でもやはりそれにも限度があるでしょう。その限度がどれくらいかはわかりませんし個人でも違うでしょう。でも上記で述べたことと同じような理由で、「『もうニートになった人』については、その人権を守る方途を考え、『これからニートになりそうな人』には『止めたほうがいいよ』」と説得するのが良いと思っています。

あと、「それにリスクヘッジという発想は確かに必要だとは思うけど、それができる人は友達がいたり情報収集とかの能力があったりする人に限った話でないの」という点については話の順序が逆だと思います。リスクヘッジできない人にこそ、リスクヘッジが必要だと内田先生は説明しているわけです。

社会保障の基本的な考え方として、公助、共助、自助があります。貧困などの問題を解決するための、一番簡単な方法としては「公助」として国の福祉負担をあげる方法があります。僕も90年代からの低福祉政策を変えて増やすべきだと思っています。ただ、細かい点は省きますけど、上げすぎると企業が競争力を無くしてしまうから、上げすぎは良くない。その他は、やはり自助と共助しかない。内田先生のいっているのは結局、「共助を増やしましょう」ということです。僕もこれは賛成です。とうか、国のお金が底をついている状況では、人々の意識をこういう方向に持っていくしかないと考えるからです。ヨーロッパにいて気がついたのは「家族」や「共同体」という役割がいまだに強く働いているということです。日本の地域の共同体は都市化の進展が壊滅状態になってしまい、最後の砦である家族にしても機能していません。ヨーロッパは毎日、家族と食事をしますし、週末は親元を訪ねたり、長い休暇やクリスマスには再開したり。公助の手厚い支援はもちろんのこと、こういった共助の精神で、精神的なレベルでのリスクヘッジの体制がまだ残っていると思います。日本では「強者」がリスクヘッジできるけど、「弱者」はできていない。だからむしろ弱者といわれる人たちこそ「リスクヘッジの発想」を身に着けないといけない。まあこういうのは学校で教えられるものではないので難しいかもしれません。

あと細かい話ですが、「30くらいまで働いていた女性が生きる意味だとか働く意味がわからなくなってアメリカにいったら多様な価値観があってホッして帰ってきて持ち直したということを質疑応答のときに内田氏にいったら、「よかったですねえ、それはニートの入り口だったのですよ」と(笑)のマークもなしでいっているのが気にかかった」と書いているけど、「それは危険な兆候ですよ(笑)P218」に「笑」のマーク込みで書いています。別にその人たちを心の底からバカにしているわけでは決してないと思いますよ。

次に、『ためらいの倫理学』について。

 戦争責任について、内田先生は「『戦争犯罪』について個人(ミロシェビッチ)の責任を問わない」なんてことは言っていません。それぞれに言い分があるという当たり前のことを見ましょうといっているだけです。当たり前ですが、これは大事な点です。コソボ空爆のときは「邪悪なものを排除せよ」というイデオロギーに引かれてしまっていたわけですから。このコソボ空爆を導いたイギリスのブレアの役割について細谷先生が「倫理的な戦争」で詳しく書いていますが、それと内田先生と同じようなことを言っています(エッセイと学術本ではまったくその体裁は違いますけど)。

またブログ主は次のように書いています。「同じ批判文で高橋哲哉が在日朝鮮人作家の徐という人が「日本人が責任をとらないなら日本人は菊のパスポートも現在の生活もすべて捨てて難民になるべきだ」といったことを「きわめて正論」といったことに対して、「政治的な立場を強制されるのは嫌だ。それに従わない自由もある」といっている。戦前に日本に強制連行されてきてからの在日朝鮮人に対する日本の対応はどうだったのかな?「臣民」として散々労働者として線路やダムや国会議事堂、松代大本営を造らせておきながら、補償がいやだからと国籍を奪い、帰国事業で早く帰れという…」。

日本が、近隣諸国に対して戦前戦中を通してしてきたこと、その歴史は絶対に直視して恥じ入らなければならないと思います。それは一人の日本人として、また一人の個人としてしないといけないと思います。ただ僕もこの点、内田先生の意見には同調するところもあります。ちなみにブログ主の引用は原文の意味をつかみ損ねています。全然違う意味です。徐さんは「日本人が責任を逃れられるとすれば、日本の国籍を捨てて難民になる気概を持ったときだけだ」と言っています。僕は、これはやはり「言い過ぎ」と感じてしまいます。もちろん彼の怒りについて僕らは真摯に受け止めないといけないでしょうけど、日本人としての政治的責任の取り方は内田先生がいうように一つではない。目に見える形での金銭支援を自発的にしている人もいるでしょうし、彼らの活動のお手伝いをしている人もいるかもしれない。そのほかにもブログ主のように本を読んで怒りを覚えて周りの人に対して啓蒙活動をしている人もいるかもしれない。僕みたいにへタレの右翼に怒りを感じてブログに書いたり、教育基本法の改正のときには反対のデモに参加したりしている人もいるかもしれない。むしろ、パスポートを裂いて国籍を捨てろというのは、まさに戦前、戦中、そして戦後の日本の政府が彼らにしてきたようなことを、自分たちもなぞっていることになりませんか。日本人として責任を取らないといけないのはその通りですが、その仕方については色々な形があってよいのではないか。その仕方までをそのように強圧的に強いられるというのにはやはり違和感を覚えてしまいます。(このように簡単にいってしまうと彼らの苦しみを実感としてわかっていないといわれるかもしれないのですけど)。

 ブログ主の言うことは僕もぼんやりとですが、理解できているつもりです。おかしいことにはおかしい。間違っていることには間違っているという。これは正しいです。でもいくら正義があっても総論としてみんな正義と賛成していてもその正義の達成のための手段や仕方については一致しない。社会には色々な人達がいる。そして費やせるリソースも限られている。そのなかですべての理不尽や不条理を解決しようというのは難しい。僕ができることは自分の身近にある問題を自分のできる限りで解決できるように知力すること。あるいは僕が職業としてそういうものに関わるようになればそういう社会的な問題を解決できるように努力すること。僕はそういう風に考えて行動している人はわりといるのではないかと思っています。みんながみんな、歴史に隠蔽され現代に隠された見えないマイノリティーの問題について心の底から痛みを共有して彼らを救済するように考えていくべきだというのはやはり無理があるように思えます。極端に走るのではないく「そういう問題もたしかに目を向けて考えていかないといけないな」という感じでは駄目ですか。もしもブログ主さんがこの点について甘すぎると主張するのであれば、やはりそれなりの根拠が自分の生き方として必要になってくると思います。そこをもう少し自分の中でもまとめて整理するようにしたほうがいいかもしれません。

 最後に、僕が上で答えたことは数箇所を除いて既に内田先生が本に書いていることを焼きなおしたものです。ブログ主の文章を読んだときに本当に相手の主張を理解しようと読んでいるのかと少し不安に思いました。彼の主張をちゃんと読み取れていない箇所か何個があったので、自分の立場に絡め採られて「見たいもの」だけを見ているような印象がしました。偉そうに上から言いやがってと思っているかもしれませんが、せっかく真剣に読んで文章を書いてもらったので僕も自分の考えを率直に書かせてもらいました。何かしら一ミリでも新しい知見や発見があれば幸いです。







ということなので、私もOも議論を継続するので、みなさんもコメント欄を活用していただいてガンガン参加/乱入してきてください!
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feinrain5

Author:feinrain5
情熱を気高さが支えてくれる。その高貴な部分こそ、感動した自分自身に他ならない。

それが教養なのだ。


それがより多いかどうかで私は人の格が決まると考えている。


教養とは何も俗に言うクラシックや絵画などいわゆる「キョーヨー」の分野にとどまらない!マンガも映画も、場合によっては日常の経験まで教養となりうるのだ。


ただ、教養というに値するものはそうそうないのも事実。


現状、生き方が混迷とするこの日本において、人生に決定的な影響を与えるもの。

このブログでは、あなたにそのような貴重な経験をさせられるような作品を紹介していきたい。

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