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私(メール上ではブログ主と掲載)と友人のOのメールのやり取りをのせるので、忌憚のない意見を聞かせてください!


文脈はOと喫茶店で話していて、その時、内田樹氏の著書について私が批判し、その後、彼と議論がかみ合わなかったため、私がその次の日に内田氏の著作を読んでその批判をメールしたというもの。
メールの内容に関しては、個人名はプライバシーの観点から伏せさせていただきました。それ以外はそのまんまです。




まず私のメールから。





                  Oへ

 この前君が言っていた内田樹という人の『下流志向』と『ためらいの倫理学』と『日本辺境論』を読んでの感想を言おうと思うので聞いてほしい。

 はっきりいって自己批判を欠く愚かな人間の戯言に過ぎない。根拠を順次挙げていくから読んで欲しい。


 まず、『下流志向』から。


 この本では、

①現代のニートが生まれた背景として消費者としての立場になれた子ども達がすぐに「意味」だとか「効果」だとかわかりやすく成果を求めることになれているため、本来労働や学習という成果があがるのに時間がかかり、かつ利潤が経営者の下に多く入るため本質的にアンフェアなものになじめなくなっていること。職場になじむ努力もしないでいるのは怠惰だということ。
②「自分」というものは社会の中で役割を担うことによって価値を初めて見出されるものであり、その認識を欠いた「自分探し」や「やりたいこと探し」などは本質的に無意味であること。そしてそのような人間が増えすぎることによって社会に悪影響がでること。一見華やかな仕事につくよりも、自分が目立たなくても社会を支える仕事にも意義があるということ。
③②と関連して以前のような相互扶助によって支えられてきた共同体が解体されたため、道場などを中心とした共同体を作って相互扶助を復活させることが急務であること。
④現代の社会は仮に高学歴であっても以前のように安定した職業に就けるとは限らなくなったことからリスクヘッジの発想が必要になったこと。

が主に述べられている。


間違ってはいないとは思う。だけど、基本的にこれは「強い人」「運のいい人」「元気がある人」「人間的な魅力のある人」だから言えることではないのかな?というのは、全体として③は述べられているけれど基本的には「自分で何とかしろ!」って発想だから。この要約以外の巻末のインタビューが収録されていて、30くらいまで働いていた女性が生きる意味だとか働く意味がわからなくなってアメリカにいったら多様な価値観があってホッして帰ってきて持ち直したということを質疑応答のときに内田氏にいったら、「よかったですねえ、それはニートの入り口だったのですよ」と(笑)のマークもなしでいっているのが気にかかった。内田氏の中ではニートとは基本的になってはいけないものなのだろう。だけど、そうやっていろんなことに疑問を持つことは必ずしも悪いことなんやろうか?僕からすればそういう人の方がむしろまともな気がする。そもそも、確かに「自分」というのは社会の中で価値をもつものであるということは確かにそうなんやけど、果たしてそれはどこまでリアルな意見なんやろう?ひたすら仕方がないから嫌な仕事をして付き合いたくもない職場の仲間との不愉快な飲み会に仲間はずれにされるのが怖いから自己投資に使えるかもしれない貴重な時間を割いてそれでも人付き合いのセンスがなくてその上休みもとれなくて、それでもある一定の成果をあげないまま解雇されて、その時点で天職なんかに十分な社会的な評価を獲得できなかった人はどうするの?それにリスクヘッジという発想は確かに必要だとは思うけど、それができる人は友達がいたり情報収集とかの能力があったりする人に限った話でないの?内田氏は「就業機会もあるのにしないのは悪い」ともいっているけど、Oも就職活動をやってみればわかると思うけど、相当程度偶然によるところが大きい。それにいくら「努力」しても日本の新卒採用システムが変わらない限り、景気の浮き沈みなんかでそこからこぼれ落ちた人は「努力」をしていないとみなされる。それに内田氏も結局、「成功者」だよね?別に「成功者」が何かを語ってはいけないとは思わない。だけど、「成功者」とは往々にして自分がしてきたことを絶対視してしまう。内田氏は明るいから仕事に恵まれて「楽しそうにしてれば仕事は向こうからやってくる」といっているけど、それは内田氏が元気があって能力があって魅力があるからできることなのでは?家族にも恵まれて東大でて頼りになる友人もいて最終的に大学教授になってる自分が運がいいのを自覚しているのか大いに疑問。あと、全般的にシステムに対する批判がほとんどなかったのは正直どうかと思う。中でも経営者が得するのは当たり前、労働とはそもそもアンフェアなものという言い分は明らかにおかしくない?だってこの前も問題になったけど鳩山なんて株だけで50億以上もってるんやで?明らかに不当でない?それに今のシステムやったら一つの会社で働かないと得をしない前提になっている。リスクヘッジということをいうんやったら、先行きがわからん将来に備えるためにも貯蓄するお金を労働者、特に若者が持てるようなシステムを創るのが労働者の「非」を責めるよりも先決なのでは?僕もOもいつニートになるかわからんことをおそれなあかん社会よりも、安心して二、三年ニートやれたり職場環境が少しでも改善された社会の方がいいと思わない? ③で一応共同体の相互扶助については述べられているけど、システムの矛盾を批判しない人がどれほどリアルにこのことを考えているのか、非常に疑問。それに何より、個人の自助努力という発想が仮にある面正しかったとしても、それは社会的・政治的にはどういう意味をもつかという視点から見て、体制に利用されないかということを念頭におくべきでない?彼の論調をみているとどうもこの視点が欠けているように思う。本人が仮にそういうつもりがなかったとしてもこの本を読んで「努力が足りないんだ」とか「よく考えなかった俺が悪い」とか「本当に嫌な職場でも自分を犠牲にして働かなくてはならない」とか自分責めてしまう、親が息子や娘を責める、またはその逆の事態を引き起こす原因にならないかな?日本はとりわけ労基署とか労働関係の団体に訴えるのがものすごく少ない事実を考えてみてもそういうメンタリティや事情があるということは知っておいた上でこういうことをいうことが果たしてどういう効果をもつかを考えるべきでない?僕には少なくともそういう配慮をしているようには見えない。『反貧困』っていう湯浅誠氏が書いている本を読んでみてほしい。これはそういう視点から書かれていてリアリティにあふれた本やから。



次に、『ためらいの倫理学』について。

 これについては愕然とした。

 まず、Oが前に言っていた高橋哲哉批判なんやけど、はっきりいってひどい。内田氏は「戦争はあくまで経済的・社会的な構造が原因であるから、個人の責任なんて問えるはずがない。ミロシェビッチに聞いても『おれはそんなつもりはなかった』というに決まっているだろう」というようなことが書いてある。はっきりいって、無知もはなはだしい。まず、確かに戦争は経済的・社会的な構造が原因なのは間違いない。だけど、個人の責任を問わないということがどういうことをもたらすか、日本の現在をみればわかるんやないの?例えば『蟻の兵隊』というドキュメンタリーがあるんやけど、その人は天皇裕仁の「神兵」として山東省に行って敗戦のとき、上官が兵力が欲しかった中国国民党の幹部やGHQと交渉して一人で逃げて置き去りにされた。なんとか帰国したが、国はその事実を認めず「自主的に残った」として補償を与えず、裁判を死ぬまでやったけど勝てなかった。この人がこの内田氏の戯言を聞いたらどう思うやろうね?この一事を見ても責任者の責任を明確に問わずに逃れるということがいかにひどくて痛みのわからない人間の暴言かわかるやろ?こんな例ははいてすてるほどある。
 次に、同じ批判文で高橋哲哉が在日朝鮮人作家の徐という人が「日本人が責任をとらないなら日本人は菊のパスポートも現在の生活もすべて捨てて難民になるべきだ」といったことを「きわめて正論」といったことに対して、「政治的な立場を強制されるのは嫌だ。それに従わない自由もある」といっている。戦前に日本に強制連行されてきてからの在日朝鮮人に対する日本の対応はどうだったのかな?「臣民」として散々労働者として線路やダムや国会議事堂、松代大本営を造らせておきながら、補償がいやだからと国籍を奪い、帰国事業で早く帰れという。その後も朝鮮半島の分断に積極的に協力して、かつ戦前からの朝鮮人を酷使してつくったインフラを活かして生んだ「繁栄」を謳歌しているくせに、差別し、歴史を隠蔽する。こんなことをされて怒らない方がおかしくない?それに、日本人という立場で責任をとること、それはこういう風に歴史を知ることでもいいし、カンパすることでも何でもいいのだけれど、をしないのに、「自由」なんてあると思う?他者の「自由」に何の配慮もしない人間が。はっきりいってこれをみてOがまだ内田という人間に好感を抱くなら感性を疑うしかない。

 最後に、『日本辺境論』なんやけど、これはさっきの批判を踏まえていうと、極めて時代感覚に疎いものとしかいいようがない。こんな風に何の疑いもなく「日本人」について歴史にふれることなく述べるということが果たしてどんな意味があるの?Oはこれを外国人がみてもわかるように書いているっていったけど、こんなもの外国人は読まないよ?それに日本人論ってそもそも欧米の基準を日本人が内面化したものに過ぎないのは過去の日本人論を読んでみればすぐにわかることや。他国との関わりの中で日本というものを捉えないと「外国人」に本当の意味のあることは書けないのでは?おそらく彼の中には「在日朝鮮人」も「在日中国人」も頭にない。Oは彼がレヴィナスの他者論を学んだといっているけれど、とてもそうは思えない。レヴィナスがいう「理解不可能な他者」というのも、お年寄りや周りの人に対しての気遣いというレベルではないと思うぞ?そんなレベルの「思想」でそんなに高名になれるのなら、ヨーロッパというのはどれだけレベルの低い野蛮な地域なんだろう。今までの批判からわかるかもしれないけど、内田という人間の知性と感性は信用しない方がいいのでは?あまりレヴィナスに対する正確な理解もあるとは信じがたい、、、。僕が言いたかった「他者」というのは、おそらく僕達日本人にとっての「在日」のような存在なんよ。日本人であるということで知らなくても良いという「特権」が生じるという事実。そもそも同じ言葉を話し同じものを食べ同じ生活習慣を持つ人間なのに。第一、「在日」とは日本人がいるから生まれているものだよね?なぜなら自分から「在日」なんていう名前をつけるということはありえない。あくまでも日本人が前提になっている。それになんで「日本人」「韓国人・朝鮮人」という風に強制的に分類されてしまうのか?グレーゾーンとかそれ以外の心のあり方もあるはずだ。自分達が当たり前だと思っていることが実は非常に差別的なことであり、自分が自分として生きることによって不要に悩む人や苦しむ人がいるという認識は持たねばならないと思う。



 以上で、本の批判は終わるけど、この前のOの発言で気になったことがあるので、それも述べておく。

 まず「帰化しないの?」というのは非常に無神経であるということは言っておく。相手が仮にいいといったとしても、日本人がこれを何の疑問もなしにいってはいけないよね?日本に対する憎しみもあったかもしれない。分断された故郷に帰れる日を待ってあえて韓国籍・朝鮮籍のままいるのかもしれない。差別される日本社会の中で「朝鮮人」「韓国人」であることだけが心を支えているのかもしれない。そもそも三つの「国籍」から選ぶこと自体に疑問を持っているのかもしれない。それ以外の理由があるのかもしれない。それに少し言ったけど、「帰化」というのは非常に困難であったかについては辛淑玉さんという人が言っていることなんやけど、「不動産をもつこと」「家族単位でせねばならないこと」など、特に前者みたいな難しい条件をクリアして、なおかつ散々いやらしい役人の質問に「はい」としか答えてはならず、名前も「よい日本人らしい名前」でないとだめというようなよくわからない、かつ同化を強制するような抑圧的な質問をする。辛さんは自分の名前の漢字が使用していい漢字の中に全部入っていて、読み仮名もなんでもいいといったにも関わらず「帰化」の許可はおりなかったらしい。
 これをみても「帰化」ということが在日朝鮮人・韓国人にとっては非常に不愉快なものである、もしくはイメージとしてあるといえるだろう。もちろん職業上の理由から、例えば船舶の荷物運搬の仕事をしていた人なんかは日本国籍を得ている人もいるし、改善されてきているのも事実。だけど日本人がそれを何の疑問もなしにいうことは非常に無知で失礼なことだろう。仮に相手は答えてくれたとして、そしてそれで何の不愉快な思いもしなかったとしても、基本的にはデリケートになるべきだ。そういう認識なしで関わられたら、こいつ表面上は仲良くしていても結局何もわかってないな、と思うだろう。一番大事なことは「帰化」という「同化」の選択肢をとらなくても平気で生きていけるように制度や自分や周囲の意識を変えていくことやろうと思う。


 最後に、これは僕個人の問題なんだが、非常に君の態度は無礼にうつった。最初に君が私淑している内田氏に対して十分な対応をしなかったことで、君の気分を害したのなら、非を先に認めておく。よくないと思ったものはよくないといった方がいいと思ったのがよくなかったのかもしれない。
 だが、基本的に君は僕を「論破」しようとするばかりで、こちらのいうことを聞こうとしなかった。「大人になれ」だの「勉強していないからだよ」というは正直傷ついた。何もこちらのことを考えてくれていないなと思わざるをえなかった。僕の就職活動のことを君は僕から聞いたか?僕がどういう姿勢で「在日」について学んでいるか見ようとしたか?僕は確かに言葉足らずだったかもしれない。だが、それはそれとして、明らかに君の上から目線の理詰めに対して答えづらそうにしている様子をみて、それに何も反応しなかったことは君に非がある。それに僕はお互い高めあえたらいいと考えはすれ、君のいうことを理詰めで全否定する気なんて毛頭なかったと断言しておく。それは態度にも出ていなかったかな?そういう態度で常に君と接していたのに、そう見えていなかったなら残念だ。
 僕が「今の君が書いたものなら読まない」といったのは、内容の問題ではなく、姿勢の問題だ。相手の意見を聞こうともせず、上から目線で論破することだけに集中しているような、または暗にそういう目線からみている人の書いたものを読む気になるかな?例えば、僕が君と何の知り合いでもない「ニート」が君に「大人になれよ」と直接的または間接的にいわれたら同じように感じるのではないかな?
それに僕が言葉に詰まったのは、何より以前にはそういった姿勢でなく物事に取り組んでいたのに、急に肩に力が入って理詰めで話をしようとするから、どう伝えようか、接しようかと考えてしまったからなんよ。おそらく、あの場で僕が君と同じように理詰めで「議論」をしようとしてもお互いにとって何も良い結果は生まなかっただろうし。ひょっとするとスウェーデンに留学して「日本人として」肩に力が入ってしまったのかな?少なくとも留学以前は「すべての人が難しい問題を考えなくていい」とか「『子ども』が増えて困る」ていうようなエセ・エリート主義とか「国家の視点からみてマイノリティが犠牲になるのは仕方ない。割り切るべきだ。」なんていう国家主義的(その実国家の都合のいいことをいわされているに過ぎない)なことは言わなかった。答えをあらかじめ決めてそこからスターとしてかたくなに守っている感じがした。僕にも留学経験は短期だけどあるから、「議論」というとディベートを想定してしまうことはわかるし、特に欧米人とか中国人はこういうタイプの話を好むのもわかる。だけど、それはそれとして、やっぱりどう伝えるかだとか、相手にも言い分はあるだろうとかいう姿勢は万国共通で必要であることも確かな事実やと思う。そうでなければなんと世界とは醜くて野蛮なことか!!



 最後は非難めいたものになってしまったかもしれないが、これだけは誤解しないでほしい。こんなにわざわざ読みたくない愚著を読んで批判したのは、Oならいいジャーナリストになれる素質があると思うからやということ。そうでなくてはこんな文章を長々と書かない。
 在日朝鮮人・韓国人のことについて色々偉そうに語っているけれど、はじめから僕だってわかっていたわけでは全くないしまだまだ知らなければならないことは山ほどある。むしろOと同じように「国家的な視点」だとか「特権的な地位」だとかを肯定して、はっきりいうと開き直っていた時期があった。だけど、就職活動を通してだとか、大阪で在日朝鮮人・韓国人が朝鮮戦争で同胞(両親・兄弟・恋人・親戚・親友)を殺すために使う武器を(仕事が選べなかったことが原因で)作らざるをえなくなった時、一分電車を止めれば同胞の1000人助かると信じて線路に寝て電車を少しでも長く止め続けたという話を聞いて、国家というものはなんとむごく、それに無知な自分とはどれだけ罪深い人間なんやろうと思ったんよ。それでこの問題に向き合うことなしで日本人として生きることも、海外にでても意味がないだろうと思って、リアリティをもって取り組むことができるようになった。マイノリティのことを「仕方がない」とOは言ったけど、これを聞いたら変わってくれることを私は信じている。少なくとも君は事実を知ったわけやから。

 長くなったけど、返信待ってます。忌憚のない意見をよろしく!




という私のメールに対するOの返信。








 ブログ主へ

 わざわざ内田先生の本を読み込んで感想をくれてありがとう。まず、本題の前に、最後にブログ主が書いていた「基本的に君は僕を「論破」しようとするばかりで、こちらのいうことを聞こうとしなかった」という点については確かにそういう感じがあったかもしれないと少し反省しています。まことに申し訳ないです。先生のことになると、やはり、感情的になるのかもしれませんね。「批判をするのならどういう根拠があるのかちゃんと示してもらわないと困るぞ」と(これは別に内田先生だけでなくほかの好きな先生が関わることでも同じことです。師匠というのは自分のアイデンティティーに関わってきますからね)。

 そして、僕も内田先生の『日本辺境論』を読んだのですが、残念ながら想像していたものより面白くなかったです。大風呂敷を最初に広げて「空気」とか「機」とか「きょろきょろ」とか、先人たちの抽象的なテーゼを掘り起こしながらの説明だったからです。しかも2章と3章についてはほとんど「学び」についての考察の焼き直しでした。もちろん、内田先生も前書きで「新しい考察はほとんどない」と書いているのでそこを批判するのはどうかと思いますが、久しぶりの書き下ろしで期待していた自分としてはもう少し新しい視点があっても良かったと思います。編集者の落ち度もあったかもしれませんね。たとえば、もう少し日本に特有な具体的なケースをピックアップしてそこから帰納的に「日本的なもの」という大きなテーゼを説明するほうが、まあちょっと社会学者っぽくなってしまうけれど、内田先生の独特の視点の新しさみたいなものが出てきたのではないかと思いました。 このままではつまらない方向に埋没してしまいそうで、正直にいうと、内田先生は早く大学を定年してもらい、じっくり休んでじっくり思想を熟成させてほしいですね。

 さて本題。『下流思考』は学びと労働についてよくまとめられた本だと思います。細かい部分で違和感を覚えるところもありますが、僕は総論として彼の考えに賛同しています。細かい部分というのはブログ主が言うように社会学的な意味での「構造」に対する批判です。やはり90年代の不況で若い人達が構造的に底辺に押しやられたことはデータから見ても明らかです。そこについてはもう少し言及されても良かったと思います。しかしながら、彼の最も言いたいことというのが、「働かないニートや学ばない学生というのは、市場のイデオロギーが浸透することによって生みだされた存在」であるということです。このテーゼについて論ずる上で、学びとは何か、働くとは何かについての原理的な分析に集中するということは当然のかとかもしれません。上記の批判は免れないかもしれませんが、でも、内田先生は、あとの書き物でその点については補足的に書いています(ここでは書きませんが)。

 僕は上でも書いているように、そしてまたブログ主と話したように、極めてアンフェアな経済構造についてはちゃんと国の政策として変えていくべきだと思っています。若い人だけが集中的に不条理を受け入れるのはやはりアンフェアです。ただ若い人がその時々の経済状況によって不利益をこうむるというのは世界レベルで起こっていることでもあります(福祉の厚いヨーロッパでも、若い人がインターン生として半年ごとに会社を転々と回されるケースが問題となっています)。日本の場合は歴史的に終身雇用制度とそれに伴う新卒採用制度を実践してきたので、その分で他国よりも酷いのかもしれません。でもこの制度を仮にもう少し柔軟なものに変えることが出来たとしても、状況はそれほど変わらないことでしょう。日本だけが必ずしも異常ではないという点はリマインドされるべきです。

 この点を踏まえたうえで、僕は内田先生のいうように「大人になりましょう」という主張は現実的な観点からやはり必要だと思います。「自分の価値観に正直に生きましょう」というのは必要なメッセージですけど、それが強くなりすぎるとそれは駄目でしょう。むしろ社会としては「多くを望んで生きないほうがいいぞ」ということを要請として出さないといけないと思います。というのも、結局は「共同体が生き延びれるか否か」という点に関わってくるからです。みんながみんな自分の好きなことができるわけではない。そもそも夢みたいなことはこれまでの時代で一度も無かったわけでしょう。「金がもらえるのに仕事が楽しいとかおかしいぞ」みたいな感覚だったのだから。もちろん、団塊の世代はそもそもみんな貧乏だったし、生活が向上するとか科学技術が発達するという「肌感覚」での「向上感」があったから、生きる上での希望が常にあったという点では我々とは違うでしょう。それを考えるとほんとに大変な時代だなと思います。でもそれは先にも述べたようにどこの国も同じような状況です。どこの国でも先進国であれば、若者は働きたくないし学びたくない。日本の場合はポストモダンへの進展が早かったから、その状況が少し突出しているでしょうが。僕の意見ですが、社会の標準的なメッセージとしては「こんな時代だから、小さく生きれば生きるのがいいんです」くらいでいいと思います。内田先生のいうように「『もうニートになった人』については、その人権を守る方途を考え、『これからニートになりそうな人』には『止めたほうがいいよ』」と説得するのが良いと思っています。それでも、「大きく生きていきたい」「自分の価値観を試してみたい」と思うような人は自らの責任でトライしていくでしょうし、そういう人のうち何割かが逸脱者として成功していくことでしょう。

 この本におけるブログ主の内田先生に対する一番大きな批判は「成功者による、現場のわかっていないえらそうな戯言」ということかもしれないけど、それは正当な批判ではないと思います。システムに対する言及がないという批判はブログ主のいうとおりかもしれないけど、成功者云々の批判は議論として「内容がない」ので成り立たない。前にも言ったけれど、それは批判としては天下無敵です。「金持ちには金持ちであるがゆえに抜け落ちてしまう視点がある」という主張は、どんな場合でも通用しますからね。

 ブログ主の次のコメントは少し気になりました。

「内田氏の中ではニートとは基本的になってはいけないものなのだろう。だけど、そうやっていろんなことに疑問を持つことは必ずしも悪いことなんやろうか?僕からすればそういう人の方がむしろまともな気がする。そもそも、確かに「自分」というのは社会の中で価値をもつものであるということは確かにそうなんやけど、果たしてそれはどこまでリアルな意見なんやろう?ひたすら仕方がないから嫌な仕事をして付き合いたくもない職場の仲間との不愉快な飲み会に仲間はずれにされるのが怖いから自己投資に使えるかもしれない貴重な時間を割いてそれでも人付き合いのセンスがなくてその上休みもとれなくて、それでもある一定の成果をあげないまま解雇されて、その時点で天職なんかに十分な社会的な評価を獲得できなかった人はどうするの?それにリスクヘッジという発想は確かに必要だとは思うけど、それができる人は友達がいたり情報収集とかの能力があったりする人に限った話でないの」

僕も、ニート的な生き方(定義が曖昧なので比喩的な意味で)は人生のある時期には絶対に必要だと思います。僕だって年に何回はぷらーと旅して何で生きているんだろうと思ったりします。一週間くらい何もしなかったときもありますし。でもやはりそれにも限度があるでしょう。その限度がどれくらいかはわかりませんし個人でも違うでしょう。でも上記で述べたことと同じような理由で、「『もうニートになった人』については、その人権を守る方途を考え、『これからニートになりそうな人』には『止めたほうがいいよ』」と説得するのが良いと思っています。

あと、「それにリスクヘッジという発想は確かに必要だとは思うけど、それができる人は友達がいたり情報収集とかの能力があったりする人に限った話でないの」という点については話の順序が逆だと思います。リスクヘッジできない人にこそ、リスクヘッジが必要だと内田先生は説明しているわけです。

社会保障の基本的な考え方として、公助、共助、自助があります。貧困などの問題を解決するための、一番簡単な方法としては「公助」として国の福祉負担をあげる方法があります。僕も90年代からの低福祉政策を変えて増やすべきだと思っています。ただ、細かい点は省きますけど、上げすぎると企業が競争力を無くしてしまうから、上げすぎは良くない。その他は、やはり自助と共助しかない。内田先生のいっているのは結局、「共助を増やしましょう」ということです。僕もこれは賛成です。とうか、国のお金が底をついている状況では、人々の意識をこういう方向に持っていくしかないと考えるからです。ヨーロッパにいて気がついたのは「家族」や「共同体」という役割がいまだに強く働いているということです。日本の地域の共同体は都市化の進展が壊滅状態になってしまい、最後の砦である家族にしても機能していません。ヨーロッパは毎日、家族と食事をしますし、週末は親元を訪ねたり、長い休暇やクリスマスには再開したり。公助の手厚い支援はもちろんのこと、こういった共助の精神で、精神的なレベルでのリスクヘッジの体制がまだ残っていると思います。日本では「強者」がリスクヘッジできるけど、「弱者」はできていない。だからむしろ弱者といわれる人たちこそ「リスクヘッジの発想」を身に着けないといけない。まあこういうのは学校で教えられるものではないので難しいかもしれません。

あと細かい話ですが、「30くらいまで働いていた女性が生きる意味だとか働く意味がわからなくなってアメリカにいったら多様な価値観があってホッして帰ってきて持ち直したということを質疑応答のときに内田氏にいったら、「よかったですねえ、それはニートの入り口だったのですよ」と(笑)のマークもなしでいっているのが気にかかった」と書いているけど、「それは危険な兆候ですよ(笑)P218」に「笑」のマーク込みで書いています。別にその人たちを心の底からバカにしているわけでは決してないと思いますよ。

次に、『ためらいの倫理学』について。

 戦争責任について、内田先生は「『戦争犯罪』について個人(ミロシェビッチ)の責任を問わない」なんてことは言っていません。それぞれに言い分があるという当たり前のことを見ましょうといっているだけです。当たり前ですが、これは大事な点です。コソボ空爆のときは「邪悪なものを排除せよ」というイデオロギーに引かれてしまっていたわけですから。このコソボ空爆を導いたイギリスのブレアの役割について細谷先生が「倫理的な戦争」で詳しく書いていますが、それと内田先生と同じようなことを言っています(エッセイと学術本ではまったくその体裁は違いますけど)。

またブログ主は次のように書いています。「同じ批判文で高橋哲哉が在日朝鮮人作家の徐という人が「日本人が責任をとらないなら日本人は菊のパスポートも現在の生活もすべて捨てて難民になるべきだ」といったことを「きわめて正論」といったことに対して、「政治的な立場を強制されるのは嫌だ。それに従わない自由もある」といっている。戦前に日本に強制連行されてきてからの在日朝鮮人に対する日本の対応はどうだったのかな?「臣民」として散々労働者として線路やダムや国会議事堂、松代大本営を造らせておきながら、補償がいやだからと国籍を奪い、帰国事業で早く帰れという…」。

日本が、近隣諸国に対して戦前戦中を通してしてきたこと、その歴史は絶対に直視して恥じ入らなければならないと思います。それは一人の日本人として、また一人の個人としてしないといけないと思います。ただ僕もこの点、内田先生の意見には同調するところもあります。ちなみにブログ主の引用は原文の意味をつかみ損ねています。全然違う意味です。徐さんは「日本人が責任を逃れられるとすれば、日本の国籍を捨てて難民になる気概を持ったときだけだ」と言っています。僕は、これはやはり「言い過ぎ」と感じてしまいます。もちろん彼の怒りについて僕らは真摯に受け止めないといけないでしょうけど、日本人としての政治的責任の取り方は内田先生がいうように一つではない。目に見える形での金銭支援を自発的にしている人もいるでしょうし、彼らの活動のお手伝いをしている人もいるかもしれない。そのほかにもブログ主のように本を読んで怒りを覚えて周りの人に対して啓蒙活動をしている人もいるかもしれない。僕みたいにへタレの右翼に怒りを感じてブログに書いたり、教育基本法の改正のときには反対のデモに参加したりしている人もいるかもしれない。むしろ、パスポートを裂いて国籍を捨てろというのは、まさに戦前、戦中、そして戦後の日本の政府が彼らにしてきたようなことを、自分たちもなぞっていることになりませんか。日本人として責任を取らないといけないのはその通りですが、その仕方については色々な形があってよいのではないか。その仕方までをそのように強圧的に強いられるというのにはやはり違和感を覚えてしまいます。(このように簡単にいってしまうと彼らの苦しみを実感としてわかっていないといわれるかもしれないのですけど)。

 ブログ主の言うことは僕もぼんやりとですが、理解できているつもりです。おかしいことにはおかしい。間違っていることには間違っているという。これは正しいです。でもいくら正義があっても総論としてみんな正義と賛成していてもその正義の達成のための手段や仕方については一致しない。社会には色々な人達がいる。そして費やせるリソースも限られている。そのなかですべての理不尽や不条理を解決しようというのは難しい。僕ができることは自分の身近にある問題を自分のできる限りで解決できるように知力すること。あるいは僕が職業としてそういうものに関わるようになればそういう社会的な問題を解決できるように努力すること。僕はそういう風に考えて行動している人はわりといるのではないかと思っています。みんながみんな、歴史に隠蔽され現代に隠された見えないマイノリティーの問題について心の底から痛みを共有して彼らを救済するように考えていくべきだというのはやはり無理があるように思えます。極端に走るのではないく「そういう問題もたしかに目を向けて考えていかないといけないな」という感じでは駄目ですか。もしもブログ主さんがこの点について甘すぎると主張するのであれば、やはりそれなりの根拠が自分の生き方として必要になってくると思います。そこをもう少し自分の中でもまとめて整理するようにしたほうがいいかもしれません。

 最後に、僕が上で答えたことは数箇所を除いて既に内田先生が本に書いていることを焼きなおしたものです。ブログ主の文章を読んだときに本当に相手の主張を理解しようと読んでいるのかと少し不安に思いました。彼の主張をちゃんと読み取れていない箇所か何個があったので、自分の立場に絡め採られて「見たいもの」だけを見ているような印象がしました。偉そうに上から言いやがってと思っているかもしれませんが、せっかく真剣に読んで文章を書いてもらったので僕も自分の考えを率直に書かせてもらいました。何かしら一ミリでも新しい知見や発見があれば幸いです。







ということなので、私もOも議論を継続するので、みなさんもコメント欄を活用していただいてガンガン参加/乱入してきてください!
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コメント

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No title

まず最初にいっとくが、
ブログ主は、引用している書籍名だけ書いて、
書籍の内容が触れられてないものが多いです。
『~~』の本に書いてるようにとか、
見て欲しいとか言われてもこの場では分りません。
公開討論するならせめて引用している書籍の要約くらいつけなさい。
貴方が要約嫌いなのは承知しているが、
それくらいしないと、無知な人間には、議論に付いていけません。
所詮あんたも、内輪で会話している知識人なんだよw
特に今回の両者の論争では、
引用文に対するブログ主とO氏の解釈の違いが、多々見られた。
そんなモノに、外部の奴、その作品を読んでない奴に意見を求められても困る。
リスクヘッジって何に付いてだよ?w説明しろよwわかんねぇよw
皆に意見して欲しいなら、
そのような、管理上のミスは厳に反省されることを望む
なので、ブログ主の意見に対しては
上記のことが総括され、自己批判された後にコメントすることとする。
----------------------------------------------------
で、Oさんですね。
初めましてで恐縮ですが色々述べさせてもらいます。
僕は上でも書いているように、そしてまたブログ主と話したように、極めてアンフェアな経済構造についてはちゃんと国の政策として変えていくべきだと思っています。若い人だけが集中的に不条理を受け入れるのはやはりアンフェアです。ただ若い人がその時々の経済状況によって不利益をこうむるというのは世界レベルで起こっていることでもあります(福祉の厚いヨーロッパでも、若い人がインターン生として半年ごとに会社を転々と回されるケースが問題となっています)。日本の場合は歴史的に終身雇用制度とそれに伴う新卒採用制度を実践してきたので、その分で他国よりも酷いのかもしれません。でもこの制度を仮にもう少し柔軟なものに変えることが出来たとしても、状況はそれほど変わらないことでしょう。日本だけが必ずしも異常ではないという点はリマインドされるべきです(時々の経済状況に左右されるのは、世界共通かもしれません。
との意見。
しかし、日本の特異性は、そうした時に脱落した若者が這い上がれる手段が貧弱な点ではないでしょうか。第一に、欧州では、食糧を初めとした生活必需品は日本と比べて圧倒的に安い。少なくとも、私が暮らしたアイルランドではそうでした。生活必需品が低価格で済むということは、貯蓄なり自分へ投資できる金額が、多くなると思います。
第二に、ある年齢の時に持っていた学歴や入った会社でその後の生涯年収が大きく変わるというところです。まず、大企業に入って終身雇用と福利厚生にありつけるかで、かなりその後の人生は変わるでしょう。とかく日本人は終身雇用を固有の文化のように思いがちだと思いますが、終身雇用が確立されたのは戦後暫く経ってからですし、中小企業は今も昔も原則終身雇用ではないでしょう。さらに大企業には入れても、高卒か大卒、一般職か総合職で、給料も出世のスピードもだいぶ違う。おまけに大企業の転職市場の流動性は極端に低い。こういう状況では、格差が固定化されないほうがおかしいのではないでしょうか。
第三にちょっと論点からずれるかもしれないですが、日本の若者の就職熱を冷めさせる一因は、他ならぬ就職活動ではないでしょうか。何十枚、何千字にも登るエントリーシート、面接での人格攻撃、おまけに内定がなかなか取れないときのプレッシャー。ここまで求職者にプレッシャーをかける就職活動が欧州で行なわれているでしょうか。この過酷な就職活動に嫌気がさして、就職しない人は少なからずいるのではないでしょうか。途中で、就職活動を諦めた人を私は幾人か知っています。一年留年したのにもかかわらず、いまだに就職活動を続けている友人もおります。どんなに頑張ってもなかなか内定が貰えない。学歴によって最初から門戸が制限され、年毎によって採用数ががらっと変わる。私は幸運にも上手く行きましたが、そんな状況じゃ就職熱が冷めて、日本の若者がニートになる背景にはこのような原因もあるんではないでしょうか。)。
その次
社会保障の基本的な考え方として、公助、共助、自助があります。貧困などの問題を解決するための、一番簡単な方法としては「公助」として国の福祉負担をあげる方法があります。僕も90年代からの低福祉政策を変えて増やすべきだと思っています。ただ、細かい点は省きますけど、上げすぎると企業が競争力を無くしてしまうから、上げすぎは良くない。その他は、やはり自助と共助しかない。内田先生のいっているのは結局、「共助を増やしましょう」ということです。僕もこれは賛成です。とうか、国のお金が底をついている状況では、人々の意識をこういう方向に持っていくしかないと考えるからです
との意見に対し
日本の場合、それは国家の責任放棄では?国の無駄遣いはまだまだ幾らでもあると思いますよ。
例えば、ド田舎に高規格の道路や歩道を作ったりとか、そういう明らかな税金の無駄遣いを省く前に、徒に民間だの地域共同体だのに責任を押し付けるのは、国家の責任転嫁だと考える)。
また、
ヨーロッパにいて気がついたのは「家族」や「共同体」という役割がいまだに強く働いているということです。日本の地域の共同体は都市化の進展が壊滅状態になってしまい、最後の砦である家族にしても機能していません。ヨーロッパは毎日、家族と食事をしますし、週末は親元を訪ねたり、長い休暇やクリスマスには再開したり
日本で家族が崩壊していると言うのには賛同できかねます。日本の離婚率は先進各国と比べても、まだまだ低いし帰省ラッシュにみられるように里帰り的なものは、日本でもやってると思います。
家族との食事についても、少なくとも私と、幾人かの友人の家庭では家族と一緒に食事をしていました。統計資料を見たことがないので分りませんが、
一般的な事実として仮に家族が一同に会す時間が低い家庭が多いなら、それは家族の崩壊というよりも寧ろ日本社会の構造の問題では?低い有給取得率と、残業時間の多さのために、
あるいは、仕事が終わった後に付き合いなどがあるために、主に父親の家族と過ごす時間が減っているのではないでしょうか?それを各個人の精神レベルの問題にするのは如何なものでしょう。
法的に保障されているのだから、権利を行使しない方が悪い。そういうのは簡単でしょう。
しかし実際問題として、一労働者が上司や経営者に文句を言えるほど甘くないと思います。
日本人が共助出来ないのは、家庭なり共同体なりが崩壊しているからかもしていませんが、その崩壊を招いているのは、大企業による明らかな労働者の権利侵害に対してなにも打つ手を出さない、要するに出来るのに公助をしない、国家権力ではないのですか。
その国家権力が、自らが公助をしないことを棚に上げて、ことさら自助努力やら、共同体に任せるのは無責任極まります。納税者はそんなことのために税金を払っているのではないはずです。長くなりましたが、要約すると、国家がやるべきことも、やれることもせずに、
財源がないからと言い訳がましく、
弱者救済を個人や民間レベルの責任にすることが果たして正しいのかということです。
と思います。
で、今日の最後ですが
ちなみにブログ主の引用は原文の意味をつかみ損ねています。全然違う意味です。徐さんは「日本人が責任を逃れられるとすれば、日本の国籍を捨てて難民になる気概を持ったときだけだ」と言っています。僕は、これはやはり「言い過ぎ」と感じてしまいます
と言うことに関しては、
(原文を読んでいないので分りませんが、徐氏が言いたかったのは「日本人が過去に拘泥したくないなら、過去の日本が現在の日本に残したいい面も、悪い面も全てちゃらにして、全くの更地から国を立て直せ」ってことではないでしょうか。
柔らかく言い換えるなら、「日本人が過去からの良い遺産(科学技術、経済力、文化etc)を継承し、誇り、享受するのもいいが、その代わり、日本人が過去にしてきた負の遺産もちゃんと直視して、そのことについては謝罪してくれ、二度と起さないでくれ。日本人の良い遺産を作るうえで、どれほどの朝鮮人やアジアの人々が犠牲になってきたかを認識してくれ」ということではないでしょうか。
責任の取り方としてはOさんが以下で述べているように、日本人の個々人がこれが一番謝罪の形になるという形式でやればよいと思います
と思います。
初対面なのに私の無礼な横槍に
色々言いたいところはあると思うので、ご意見賜りたいです。
両者にまだ突っ込みたいところもあるのだが、
眠いので今日はこれまでにしておきます。
で、原稿料はいくらですが、ブログ主さん?w

No title

まず最初にいっとくが、
ブログ主は、引用している書籍名だけ書いて、
書籍の内容が触れられてないものが多いです。
『~~』の本に書いてるようにとか、
見て欲しいとか言われてもこの場では分りません。
公開討論するならせめて引用している書籍の要約くらいつけなさい。
貴方が要約嫌いなのは承知しているが、
それくらいしないと、無知な人間には、議論に付いていけません。
所詮あんたも、内輪で会話している知識人なんだよw
特に今回の両者の論争では、
引用文に対するブログ主とO氏の解釈の違いが、多々見られた。
そんなモノに、外部の奴、その作品を読んでない奴に意見を求められても困る。
リスクヘッジって何に付いてだよ?w説明しろよwわかんねぇよw
皆に意見して欲しいなら、
そのような、管理上のミスは厳に反省されることを望む
なので、ブログ主の意見に対しては
上記のことが総括され、自己批判された後にコメントすることとする。
----------------------------------------------------
で、Oさんですね。
初めましてで恐縮ですが色々述べさせてもらいます。
僕は上でも書いているように、そしてまたブログ主と話したように、極めてアンフェアな経済構造についてはちゃんと国の政策として変えていくべきだと思っています。若い人だけが集中的に不条理を受け入れるのはやはりアンフェアです。ただ若い人がその時々の経済状況によって不利益をこうむるというのは世界レベルで起こっていることでもあります(福祉の厚いヨーロッパでも、若い人がインターン生として半年ごとに会社を転々と回されるケースが問題となっています)。日本の場合は歴史的に終身雇用制度とそれに伴う新卒採用制度を実践してきたので、その分で他国よりも酷いのかもしれません。でもこの制度を仮にもう少し柔軟なものに変えることが出来たとしても、状況はそれほど変わらないことでしょう。日本だけが必ずしも異常ではないという点はリマインドされるべきです(時々の経済状況に左右されるのは、世界共通かもしれません。
との意見。
しかし、日本の特異性は、そうした時に脱落した若者が這い上がれる手段が貧弱な点ではないでしょうか。第一に、欧州では、食糧を初めとした生活必需品は日本と比べて圧倒的に安い。少なくとも、私が暮らしたアイルランドではそうでした。生活必需品が低価格で済むということは、貯蓄なり自分へ投資できる金額が、多くなると思います。
第二に、ある年齢の時に持っていた学歴や入った会社でその後の生涯年収が大きく変わるというところです。まず、大企業に入って終身雇用と福利厚生にありつけるかで、かなりその後の人生は変わるでしょう。とかく日本人は終身雇用を固有の文化のように思いがちだと思いますが、終身雇用が確立されたのは戦後暫く経ってからですし、中小企業は今も昔も原則終身雇用ではないでしょう。さらに大企業には入れても、高卒か大卒、一般職か総合職で、給料も出世のスピードもだいぶ違う。おまけに大企業の転職市場の流動性は極端に低い。こういう状況では、格差が固定化されないほうがおかしいのではないでしょうか。
第三にちょっと論点からずれるかもしれないですが、日本の若者の就職熱を冷めさせる一因は、他ならぬ就職活動ではないでしょうか。何十枚、何千字にも登るエントリーシート、面接での人格攻撃、おまけに内定がなかなか取れないときのプレッシャー。ここまで求職者にプレッシャーをかける就職活動が欧州で行なわれているでしょうか。この過酷な就職活動に嫌気がさして、就職しない人は少なからずいるのではないでしょうか。途中で、就職活動を諦めた人を私は幾人か知っています。一年留年したのにもかかわらず、いまだに就職活動を続けている友人もおります。どんなに頑張ってもなかなか内定が貰えない。学歴によって最初から門戸が制限され、年毎によって採用数ががらっと変わる。私は幸運にも上手く行きましたが、そんな状況じゃ就職熱が冷めて、日本の若者がニートになる背景にはこのような原因もあるんではないでしょうか。)。
その次
社会保障の基本的な考え方として、公助、共助、自助があります。貧困などの問題を解決するための、一番簡単な方法としては「公助」として国の福祉負担をあげる方法があります。僕も90年代からの低福祉政策を変えて増やすべきだと思っています。ただ、細かい点は省きますけど、上げすぎると企業が競争力を無くしてしまうから、上げすぎは良くない。その他は、やはり自助と共助しかない。内田先生のいっているのは結局、「共助を増やしましょう」ということです。僕もこれは賛成です。とうか、国のお金が底をついている状況では、人々の意識をこういう方向に持っていくしかないと考えるからです
との意見に対し
日本の場合、それは国家の責任放棄では?国の無駄遣いはまだまだ幾らでもあると思いますよ。
例えば、ド田舎に高規格の道路や歩道を作ったりとか、そういう明らかな税金の無駄遣いを省く前に、徒に民間だの地域共同体だのに責任を押し付けるのは、国家の責任転嫁だと考える)。
また、
ヨーロッパにいて気がついたのは「家族」や「共同体」という役割がいまだに強く働いているということです。日本の地域の共同体は都市化の進展が壊滅状態になってしまい、最後の砦である家族にしても機能していません。ヨーロッパは毎日、家族と食事をしますし、週末は親元を訪ねたり、長い休暇やクリスマスには再開したり
日本で家族が崩壊していると言うのには賛同できかねます。日本の離婚率は先進各国と比べても、まだまだ低いし帰省ラッシュにみられるように里帰り的なものは、日本でもやってると思います。
家族との食事についても、少なくとも私と、幾人かの友人の家庭では家族と一緒に食事をしていました。
統計資料を見たことがないので分りませんが、
仮に一般的な事実として仮に家族が一同に会す時間が低い家庭が多いなら、それは家族の崩壊というよりも
それこそ公助がしっかりするべきでは?
低い有給取得率と、残業時間の多さのために、
あるいは、仕事が終わった後に付き合いなどがあるために、
主に父親の家族と過ごす時間が減っているのではないでしょうか?
それを各個人や各家庭の精神レベルの問題にするのは如何なものでしょう。
法的に保障されているのだから、権利を行使しない方が悪い。そういうのは簡単でしょう。
しかし実際問題として、一労働者が上司や経営者に文句を言えるほど甘くないと思います。
日本人が共助出来ないのは、家庭なり共同体なりが崩壊しているからかもしていませんが、その崩壊を招いているのは、大企業による明らかな労働者の権利侵害に対してなにも打つ手を出さない、要するに出来るのに公助をしない、国家権力ではないのですか。
その国家権力が、自らが公助をしないことを棚に上げて、ことさら自助努力やら、共同体に任せるのは無責任極まります。納税者はそんなことのために税金を払っているのではないはずです。長くなりましたが、要約すると、国家がやるべきことも、やれることもせずに、
財源がないからと言い訳がましく、
弱者救済を個人や民間レベルの責任にすることが果たして正しいのかということです。
と思います。
で、今日の最後ですが
ちなみにブログ主の引用は原文の意味をつかみ損ねています。全然違う意味です。徐さんは「日本人が責任を逃れられるとすれば、日本の国籍を捨てて難民になる気概を持ったときだけだ」と言っています。僕は、これはやはり「言い過ぎ」と感じてしまいます
と言うことに関しては、
(原文を読んでいないので分りませんが、徐氏が言いたかったのは「日本人が過去に拘泥したくないなら、過去の日本が現在の日本に残したいい面も、悪い面も全てちゃらにして、全くの更地から国を立て直せ」ってことではないでしょうか。
柔らかく言い換えるなら、「日本人が過去からの良い遺産(科学技術、経済力、文化etc)を継承し、誇り、享受するのもいいが、その代わり、日本人が過去にしてきた負の遺産もちゃんと直視して、そのことについては謝罪してくれ、二度と起さないでくれ。日本人の良い遺産を作るうえで、どれほどの朝鮮人やアジアの人々が犠牲になってきたかを認識してくれ」ということではないでしょうか。
責任の取り方としてはOさんが以下で述べているように、日本人の個々人がこれが一番謝罪の形になるという形式でやればよいと思います
と思います。
初対面なのに私の無礼な横槍に
色々言いたいところはあると思うので、ご意見賜りたいです。
両者にまだ突っ込みたいところもあるのだが、
眠いので今日はこれまでにしておきます。
で、原稿料はいくらですが、ブログ主さん?w

No title

  返答が遅れたことをお詫び申し上げます。
ヨゼフさんの言うとおり、公開議論をする以上、引用した本を原文のままのせたり、引用したページ番号を書いたりするなどの基本的な過程を行わなかったことは経験がなかったとはいえ私の落ち度です。批判する以上は自分がどういう感想・意見を持ったからといってそれらを抱くにいたった資料を第三者にもわかるような形で書くべきでした。申し訳ない。
これに関して以下の対応をさせていただきます。
『下流志向』については議論の進み具合からみて原文によって議論を進めるというよりも議論に参加した人の意見を批判しあい、その中でどうしても必要である場合には適宜引用するという形式にしてはどうかと思うのですがいかがでしょうか?これはO君の発言の中で「見たいものしか見ていない」という発言が見られましたが、それは誰もそれを避けるということはできない以上、テクスト中心に議論を進めるというよりも、それぞれの意見を批判しあう中でテクストを位置づけるという方が、公開議論という性格上、様々な人が議論に参加する敷居も低くなっていいという理由からです。次に、『ためらいの倫理学』に関してですが、『下流志向』とは違い取り上げたエッセイ二本は短いものであるので全文をあげさせていただきます。出来る限り議論の材料は多いに越したことはないですから。
この議論の進め方に関して批判がある方はどうぞ。
さて、本題にうつらさせていただきます。
まず、O君から。
この前のコメントに関して、立ち位置に関して根本的な違いがあるなという印象を受けました。私の力点は内田氏があまりに自分が「書く」ということの政治性に関して鈍感であるということ、特に自分の置かれている立場に関して自己批判が足らないというところにあります。大きく分けて「貧困」と「日本人であるということ」という二つの点に分けて批判していこうと思います。
「貧困」の問題から。
初めに確認しておきたいのですが、私は若者に対する批判が必要でないとは言ってはいません。もちろん、生きる上で完全にフラフラ生きるということははっきりいってまず不可能であるし、様々な困難の中で生きていくことは当たり前のことなのでいうまでもありません。それに関連して正当な理由があるなら「叱る」「批判する」ことも「耐える」「都合の悪い意見も聞き入れる」ことも当然必要な行為です。ただ、それはそれとして、私が内田氏に対して気にかかったのは、「今の日本の状態がひどいことは前提としても、現代の若者にも原因がある」という風には書いていなかったというところです。確かに、「現代の若者は市場イデオロギーの中で消費者としてならされている存在」かもしれない。だが、それを書くことよりも、書いた内容がどのようにとられるか、特に実際に窮地に立たされている人間にとってどのような効果を及ぼすのか、という点を重視するというモラルの面で問題があるのではないでしょうか。O君がどの程度自分が窮地に陥るかもしれないという危機感を持っているかわからないですが、少なくとも私自身は社会構造自体の矛盾によって現在の状況が生まれたということが明らかな以上、そちらを批判しなくて若者を批判する必要があるという風にとられるような書き方をすることはモラルがないと判断しました。
以下引用
 さて本題。『下流思考』は学びと労働についてよくまとめられた本だと思います。細かい部分で違和感を覚えるところもありますが、僕は総論として彼の考えに賛同しています。細かい部分というのはブログ主が言うように社会学的な意味での「構造」に対する批判です。やはり90年代の不況で若い人達が構造的に底辺に押しやられたことはデータから見ても明らかです。そこについてはもう少し言及されても良かったと思います。しかしながら、彼の最も言いたいことというのが、「働かないニートや学ばない学生というのは、市場のイデオロギーが浸透することによって生みだされた存在」であるということです。このテーゼについて論ずる上で、学びとは何か、働くとは何かについての原理的な分析に集中するということは当然のかとかもしれません。上記の批判は免れないかもしれませんが、でも、内田先生は、あとの書き物でその点については補足的に書いています(ここでは書きませんが)。
引用
一番上であげた「人間は見たいものしか見ない」ということと矛盾するようですが、少なくとも真意を「正しく」わかってもらう努力はするべきなのに、私はまだしも熱心な読者であるO君にも疑問をもたれるような書き方がなされた本を公の場で出版するということははっきりいって無神経だといわざるを得ません。前にも書きましたが、この本を読んだことによって社会福祉政策がより厚いものになるのを妨げるような効果、例えば窮地にいる人が自分が悪いと責めたりする、またはその原因となる意見を補強してしまうなど、が生まれた場合本人がどう言い訳しても責任は免れないからです。本質的に何かを出版するということは完璧に無理解な他者を前提とせねばならないとはいえ、その努力を怠たるのは単なる「甘え」です。もちろんこのような批判を覚悟してあえて書くというのはモラルがないとは言い切れないですが、そうも思えない。
また、
以下引用
この本におけるブログ主の内田先生に対する一番大きな批判は「成功者による、現場のわかっていないえらそうな戯言」ということかもしれないけど、それは正当な批判ではないと思います。システムに対する言及がないという批判はブログ主のいうとおりかもしれないけど、成功者云々の批判は議論として「内容がない」ので成り立たない。前にも言ったけれど、それは批判としては天下無敵です。「金持ちには金持ちであるがゆえに抜け落ちてしまう視点がある」という主張は、どんな場合でも通用しますからね。
引用終わり。
これに関して「成功者」という言葉の使い方に対する配慮が足りなかったかな、と少し反省しております。先ほどの意見と関連していうと、内田氏の文章には「人生は運によって多分に左右されるし、結果というものが出てきたときに初めて原因らしきものというものが問われるのであって、たまたま自分がうまくいったからといって、思い当たる『うまくいった原因』を無批判に原因としてあげるのは注意すべきだ。少なくともそういう書き方をすべきだ。」という配慮が感じられなかったからです。そういう意味で無批判な「成功者」だといったのであって、社会の中で高い評価を受けた(ている)人全般の発言が無意味であるといったわけではないのであしからず。
社会構造についてのO君の発言について
以下引用。
僕は上でも書いているように、そしてまたブログ主と話したように、極めてアンフェアな経済構造についてはちゃんと国の政策として変えていくべきだと思っています。若い人だけが集中的に不条理を受け入れるのはやはりアンフェアです。ただ若い人がその時々の経済状況によって不利益をこうむるというのは世界レベルで起こっていることでもあります(福祉の厚いヨーロッパでも、若い人がインターン生として半年ごとに会社を転々と回されるケースが問題となっています)。日本の場合は歴史的に終身雇用制度とそれに伴う新卒採用制度を実践してきたので、その分で他国よりも酷いのかもしれません。でもこの制度を仮にもう少し柔軟なものに変えることが出来たとしても、状況はそれほど変わらないことでしょう。日本だけが必ずしも異常ではないという点はリマインドされるべきです。
引用終了
これに関する批判としてはヨゼフさんがまとめてくれており、ほぼ同感なのでそちらの議論を参考にしたいと思います。これに関しては「就職活動」というものを実際に体験するかしないかが大きな違いなのかもしれませんが、、、、。
また、今回の議論全般に関してO君に対して思ったのが、「そもそもどうしてそんなに『大人』の立場から語るのか?」ということです。
以下引用
 この点を踏まえたうえで、僕は内田先生のいうように「大人になりましょう」という主張は現実的な観点からやはり必要だと思います。「自分の価値観に正直に生きましょう」というのは必要なメッセージですけど、それが強くなりすぎるとそれは駄目でしょう。むしろ社会としては「多くを望んで生きないほうがいいぞ」ということを要請として出さないといけないと思います。というのも、結局は「共同体が生き延びれるか否か」という点に関わってくるからです。みんながみんな自分の好きなことができるわけではない。そもそも夢みたいなことはこれまでの時代で一度も無かったわけでしょう。「金がもらえるのに仕事が楽しいとかおかしいぞ」みたいな感覚だったのだから。もちろん、団塊の世代はそもそもみんな貧乏だったし、生活が向上するとか科学技術が発達するという「肌感覚」での「向上感」があったから、生きる上での希望が常にあったという点では我々とは違うでしょう。それを考えるとほんとに大変な時代だなと思います。でもそれは先にも述べたようにどこの国も同じような状況です。どこの国でも先進国であれば、若者は働きたくないし学びたくない。日本の場合はポストモダンへの進展が早かったから、その状況が少し突出しているでしょうが。
引用終了。
この部分をみて正直、O君はどの立場から発言しているのかがわかりませんでした。さも「若者」ではないように語っていますが、そもそも「大人」と「子ども」という区分が本当にできるのかはなはだ疑問です。また、その「道徳」のようなものに支えられた「共同体」というものに関してO君はどのような考えをもとにして語っているのかはわからないですが、このような「道徳や集団の結束を強くして社会をよくしよう」というような論調は非常に疑わしい。O君や内田氏が「大人」という言葉にどのような意味をこめているのかはわからないですが、社会構造の矛盾を前提として述べる上で「模範的な人格」を求めさせるように訴えるのははっきりいって「頭のいい」「立派な」人間のおごりではないでしょうか?私だって「この人は立派だ」という人はいますし、それを目指すことは大事だと思います。ですが、このような論調は普通既得権益層を守るためだけに働くということもまた事実なのではないでしょうか?現に教科書的な「模範的な人格」の人なんていつの時代もほとんどいなかったしそもそも「模範」とは時代によって変わるわけで、往々にして教育やマスメディアに刷り込まれた「人格者」に基準を置くよりも、どれだけ社会で必要とされる能力がなくても、とりあえず食べるところと寝るところくらいは確保されるように働きかける方が現実的だし、真っ当だと思います。「道徳」に関してはそのような制度が整ってからいくらでも「指導」すればいい。私は絶対に嫌ですが。
 何より「そもそも何のための共同体なの?」と思いました。今までの世代が「そもそも夢みたいなことはこれまでの時代で一度も無かった」り、「『金がもらえるのに仕事が楽しいとかおかしいぞ』みたいな感覚だった」としてもそれはそれです。別にそれに配慮する必要はないでしょう?共同体の仕組みが不当だと思うならそれをそのまま訴えて変革するような何らかの考えを創ったり行動すればいいのでは?労働法を学ぶとか組合を作るとか色々方法も考えられるわけで、よくわからない「相手の立場」というようなものに配慮する必要は少なくとも資本関係を結んだ労働関係の上にはない。ただれたエゴとは違う、「個人の幸せ」の形はあると思うし、ただでさえ資本家に搾取されているのだから、条件を改善していこうと考えるべきなのでは?少なくとも私達の世代はそういう資格があるはずです。昔がこうだからそれも考えねばならないというのは、現状を正しく認識するというよりも肯定して自由な思考や議論をとめてしまい、再三にわたっていうように既得権益層の都合のいいように動いたり語ったりしているだけではないのですか?
以下引用
「それにリスクヘッジという発想は確かに必要だとは思うけど、それができる人は友達がいたり情報収集とかの能力があったりする人に限った話でないの」という点については話の順序が逆だと思います。リスクヘッジできない人にこそ、リスクヘッジが必要だと内田先生は説明しているわけです。
引用終了
以下引用
日本では「強者」がリスクヘッジできるけど、「弱者」はできていない。だからむしろ弱者といわれる人たちこそ「リスクヘッジの発想」を身に着けないといけない。まあこういうのは学校で教えられるものではないので難しいかもしれません。
引用終了
この部分に関しても同様です。リスクヘッジというのが「共同体内での助け合い」のようなものだとして、それはそれで不可欠なことでそこには異論はありません。ただ疑問なのが、「発想をみにつけないといけない」というのは「上から目線」で傲慢な考え方でしょう。そもそも「貧困」は特に私たち若者の問題なのであって、「弱者」が問題なのではないのでは?社会構造の問題を考えるときには「強者」と「弱者」を二つに分けて後者に「配慮」するというスタイルでははっきりいって不十分どころか先ほどの「頭が良くて」「立派な」人間のおごりにすぎないと考えます。私が「それにリスクヘッジという発想は確かに必要だとは思うけど、それができる人は友達がいたり情報収集とかの能力があったりする人に限った話でないの?」といったのは、内田氏の論理がどうのということではなくて、そもそもリスクヘッジなどという「立派な」概念を持ち出すよりももっと訴えるべき・考えるべきこと・やるべきことがあるのではないのかと思ったからです。湯浅さんのように現場で働くのもいいし、カンパをするのでもいい、石原都知事が公園から野宿者を十分な配慮もせず排除したことこそが「共助」を損ねる原因になったことを批判するなど、色々考えられるのにどうしてリスクヘッジなどということをいいだすのか?これは言っておきたいのですが、知識人でいる以上、観念的なことを現実に即さない、つまり「中立的」で「客観的」な形で述べるよりも、今どんなことが行われているのかをリアリティをともなう形で述べる必要がある。今現在「貧困」はどのような形で進行していて、その中でどのような動きがあるのか?この点について十分な表現がとられているようには思えない。第一、本なんか読んでる人間は余裕があるわけで、そういう人間に訴えるには、結局「貧困」の問題を放置すると自分に返って来るという風に意識を変えていくしかないのではないか、と思います。
私が内田氏が共同体についてどこまで本気で変えようとしているのか非常に疑問だといったのはこの観点が抜け落ちているからです。少なくとも自分が社会の中で生きているという認識は不十分だといわざるをえない。
最後に、
以下引用。
あと細かい話ですが、「30くらいまで働いていた女性が生きる意味だとか働く意味がわからなくなってアメリカにいったら多様な価値観があってホッして帰ってきて持ち直したということを質疑応答のときに内田氏にいったら、「よかったですねえ、それはニートの入り口だったのですよ」と(笑)のマークもなしでいっているのが気にかかった」と書いているけど、「それは危険な兆候ですよ(笑)P218」に「笑」のマーク込みで書いています。別にその人たちを心の底からバカにしているわけでは決してないと思いますよ。
引用終了。
これについてはすいませんとしかいえません。申し訳ない。以後気をつけます。
次に、「日本人であることについて」
以下引用。
戦争責任について、内田先生は「『戦争犯罪』について個人(ミロシェビッチ)の責任を問わない」なんてことは言っていません。それぞれに言い分があるという当たり前のことを見ましょうといっているだけです。当たり前ですが、これは大事な点です。コソボ空爆のときは「邪悪なものを排除せよ」というイデオロギーに引かれてしまっていたわけですから。このコソボ空爆を導いたイギリスのブレアの役割について細谷先生が「倫理的な戦争」で詳しく書いていますが、それと内田先生と同じようなことを言っています(エッセイと学術本ではまったくその体裁は違いますけど)。
引用終了。
これに関しては『ためらいの倫理学』の該当エッセイ全文を引用し、このブログ上に掲載した後で議論しましょう。その方が原文をみないまま議論するよりも、いいでしょうから。
ということで、次の「高橋哲哉批判」に関する議論。
引用開始。
徐さんは「日本人が責任を逃れられるとすれば、日本の国籍を捨てて難民になる気概を持ったときだけだ」と言っています。僕は、これはやはり「言い過ぎ」と感じてしまいます。もちろん彼の怒りについて僕らは真摯に受け止めないといけないでしょうけど、日本人としての政治的責任の取り方は内田先生がいうように一つではない。目に見える形での金銭支援を自発的にしている人もいるでしょうし、彼らの活動のお手伝いをしている人もいるかもしれない。そのほかにもブログ主のように本を読んで怒りを覚えて周りの人に対して啓蒙活動をしている人もいるかもしれない。僕みたいにへタレの右翼に怒りを感じてブログに書いたり、教育基本法の改正のときには反対のデモに参加したりしている人もいるかもしれない。むしろ、パスポートを裂いて国籍を捨てろというのは、まさに戦前、戦中、そして戦後の日本の政府が彼らにしてきたようなことを、自分たちもなぞっていることになりませんか。日本人として責任を取らないといけないのはその通りですが、その仕方については色々な形があってよいのではないか。その仕方までをそのように強圧的に強いられるというのにはやはり違和感を覚えてしまいます。(このように簡単にいってしまうと彼らの苦しみを実感としてわかっていないといわれるかもしれないのですけど)。
引用終了。
以下引用。
みんながみんな、歴史に隠蔽され現代に隠された見えないマイノリティーの問題について心の底から痛みを共有して彼らを救済するように考えていくべきだというのはやはり無理があるように思えます。極端に走るのではないく「そういう問題もたしかに目を向けて考えていかないといけないな」という感じでは駄目ですか。
引用終了。
ヨゼフさんから引用開始。
徐氏が言いたかったのは「日本人が過去に拘泥したくないなら、過去の日本が現在の日本に残したいい面も、悪い面も全てちゃらにして、全くの更地から国を立て直せ」ってことではないでしょうか。
柔らかく言い換えるなら、「日本人が過去からの良い遺産(科学技術、経済力、文化etc)を継承し、誇り、享受するのもいいが、その代わり、日本人が過去にしてきた負の遺産もちゃんと直視して、そのことについては謝罪してくれ、二度と起さないでくれ。日本人の良い遺産を作るうえで、どれほどの朝鮮人やアジアの人々が犠牲になってきたかを認識してくれ」ということではないでしょうか。
責任の取り方としてはOさんが以下で述べているように、日本人の個々人がこれが一番謝罪の形になるという形式でやればよいと思います
引用終了。
これに関しては、「徐氏が言うような姿勢以外にありえない」と思います。まず、私は「関わり方」について批判しているわけではない。それはO君やヨゼフさんの言うとおり、自分のペースや立場、向き不向きによって自分で考えてやればいい。そうではなくて、私があくまでいいたいのは、私達が「日本人」であるということが、そのまま特権的で差別的であり、それをどこまでも批判的にみることこそが、「日本人」であることの特権を捨てて差別構造を変えることだし、それ以外に我々が差別から解放される社会を創ることはできず、それをしない限り、どのような「考え」を持っていたとしても「在日」を差別するし、アジアに対して日本人として責任を果たしたとは言えないということです。これに関してもう少し具体的に説明します。
例えば、私達は「日の丸」をみたとき、歴史を学んだりして違和感を感じるようになったとしても、国旗があるということを「意識的・批判的」にならない限り、少なくともいついかなる時でもおかしいとは感じないはずです。私達「日本人」は日本にいるという理由だけで悩んだり違和感を感じたりすることは「なぜ私はこの世に生まれたのか」という存在の根本に関わるような問題を発したとしても疑いきることはできない。「忘れる」ということが可能な構造の上にいるからです。自分の存在を少なくとも国家やそれを支える共同体自体は肯定してくれるからです。今回の内田氏の『日本辺境論』のような言説や「日本人の誇り」のようなCMも巷にあふれています。
それに対して、今回は「在日」に関して議論をしぼりますが、彼らはいついかなる時でも「違和感」を感じていなければならない。自分達の国旗はない。国家もない。「朝鮮人」だとは言われるが朝鮮語も話せないし、そもそも朝鮮人だとか韓国人だとか言われても実感がない。朝鮮半島の土を踏んだこともない。仮に日本国籍をもっても「日本人」でもない。それは韓国籍・朝鮮籍でもあらゆる国籍でも同じで、自分達の「故郷」がそもそも初めからない状態なのです。日本にいる限り「日本人にあらざるもの」として日本語を話し、日本人と同じ生活をしていたとしても、その意識・環境から抜け出すことはできない。制度的にも不当な扱いを受ける。日本人は自分達のことについて、「善なる悪」、例えば「帰化しないの?」という言葉を投げかけたりする。
私が結局、この問題が関わり方の問題ではなく、社会構造の問題であるというのは、「日本人」が自分たちの存在を少なくとも「ナショナリティ」の面で疑わなくても良いということは、裏を返せば「在日」は「日本人でない」ことで悩んだり不当に苦しんだりせざるをえない状態にあるということです。そしてそれは日本にいる限り、大量の言説を通して押し寄せてくる。これは先ほどの「貧困」の問題のところで述べたように「弱者」だから「配慮」しようというような認識で解決するようなものではなくて、自分達が「日本人であること」によって受ける特権を「日本人」は少なくとも放棄しようとしない限りは、「在日」はずっと悩んだり不当に苦しまざるをえないということを肯定し、そのようなことを肯定する以上は日本人として責任をとったことにはならない、と徐氏はいっているのだと考えます。具体的には歴史認識を構築したり、民族教育を義務教育で行ったり、参政権や公職につく権利を保障したりするなどが考えられますが、そのような具体的プロセスが実現しない限りは個人でいくら本を読んで批判的になっても、この構造は変わらない。個人の努力よりも日本社会の「刷り込み/抑圧」の方がはるかに強いからです。
 
そのような観点に立ったとき、
以下引用
大風呂敷を最初に広げて「空気」とか「機」とか「きょろきょろ」とか、先人たちの抽象的なテーゼを掘り起こしながらの説明だったからです。しかも2章と3章についてはほとんど「学び」についての考察の焼き直しでした。もちろん、内田先生も前書きで「新しい考察はほとんどない」と書いているのでそこを批判するのはどうかと思いますが、久しぶりの書き下ろしで期待していた自分としてはもう少し新しい視点があっても良かったと思います。編集者の落ち度もあったかもしれませんね。たとえば、もう少し日本に特有な具体的なケースをピックアップしてそこから帰納的に「日本的なもの」という大きなテーゼを説明するほうが、まあちょっと社会学者っぽくなってしまうけれど、内田先生の独特の視点の新しさみたいなものが出てきたのではないかと思いました。 
引用終了。
はどういう意味をもつだろうか考えてみて欲しい。
 私が内田氏が「自己批判を書く愚か者」であるというのは「貧困」の問題のときでもいった通り、自分の社会における立ち位置や「書く」ということの政治性におそろしく鈍感であるからです。O君も「日本的なもの」というものを再生産することを無批判に肯定することはすなわち、「在日」を不当に苦しめる社会を肯定し、戦争責任を放棄することに他ならないからです。上の引用を見る限りヨゼフさんもその点では認識が甘いといわざるを得ません。
以下引用。
もしもブログ主さんがこの点について甘すぎると主張するのであれば、やはりそれなりの根拠が自分の生き方として必要になってくると思います。そこをもう少し自分の中でもまとめて整理するようにしたほうがいいかもしれません。
引用終了。
 
この点に関してはその通りというしかありません。だから私は「紀州鉱山の真実を明らかにする会」と「もやい」にカンパしました。今は時間的・精神的・立場的に余裕があるので、ひたすら認識を鍛えた方が良いと考えて勉強に専念する代わりに、せめてお金は送ろうと思ったからです。この二つ以外にも「在日朝鮮人作家を読む会」に参加したり、入門書として尹健次著『もっと知ろう朝鮮』を友達に配ったりと、O君には言っていなかったですが、「活動」はそれなりにしているつもりです。まあ十分「甘い」ですが、自分の内発的なものに従わない「活動」は無意味だと思うので今はこの関わり方でいいと思っています。
 
 長くなりましたが、批判をよろしくお願いいたします!

君達のエリート面には心底うんざりさせられる!

やあみんな、僕だよ、ゾマホンだよ!カチンときたから何か書くよ!
ねえ、ブログ主くん、僕は君がここまで了見の狭い人だとは思っていなかった!心の底から軽蔑するよ!在日だとか他者の問題を論じる資格が君にはないように僕は思う!そしてOさん、はじめましてですまないけど、君もブログ主と同じだよ!君達のような心無い人間を生む原因となるのならやはり格差社会は間違っているのだろうね!自分達の議論の土台まで登ってこれない人間のことを結局は豚小屋の中の豚ぐらいにしか認識していないんじゃないのかな!?あまり図に乗るなよ!僕達は君らの虚栄心を満たすための餌じゃないんだ!君達と同じ人間なんだよ!
例えば、自他ともに認めるおつむの緩い女子高生が通りすがりに君達のやりとりを見たらどう思うだろう?おそらくそうしたことを君達は考えなかったよね?もしかしなくても全く考えなかったんじゃないかな!彼女には議論に加わる資格がないと最初から切り捨てる気だったんだろう?そうした選民的な意識を持った人間が在日どうこう共同体どうこうと言っても、君達に全く頭の及ばない僕みたいなアホ達から搾取するための詭弁にしか聞こえないよ!実際君達は自分が刺身にタンポポを添える仕事を今から六十歳まで続けるとか想定もしないだろう?でも世の中にはそういう人間もいる!そういう人間の方が君達より多いんだ!君達がたまたま優れた知能と精神と肉体と周辺環境などなどを君達の親から受け継いだからといってそれは君達の功績でもなんでもないわけだし、もう少し視野を広く持っても罰は当たらないと思うよ!
というわけで、特にブログ主くん、ネットに公開する以上は長々しくて議論もあちこちに飛び飛びなコメントはやめてほしい!読んでいる側はついていけないよ!君達みたいに頭の良い人間はともかく僕にはつらいね!高い知性を備えた限られた人間だけで議論をしたいならともかく、公開する以上はそうした配慮をしてほしい!そして、もし僕みたいな奴はお呼びじゃないというなら初めから公開なんてするな!君達が意識してか無意識にか馬鹿にしている僕のような人間に対してももっと自覚的になってほしいよ!それではお二方、今後その辺りもよろしくお願いします!口でならどうとでも言えるんだから行動で示してね!
さて、僕みたいな頭のおかしい人間が現れることを君達はどこまで想定していたのかな?日頃頭の良い人間ばかりで集まって過ごしているであろう君達が、日本は君達だけの国じゃないこと、君達とはあらゆる面で異なる人間がこの国にいること、というよりむしろそういう人間ばかりだということ(なにせ君達は少数派なんだからね)をほんの少しでも感じてくれたのなら僕も馬鹿にされると分かって発言した甲斐があります!

No title

ブログ主に、「Oがブログに掲載しろと言ったから掲載した。そしてOの意見にいろいろな反論が出ている。それについて返答しないのはおかしい。ちゃんと何かしらのリスポンスをしてください」という旨のメールをもらいました。これについてまず一言。私の伝え方が悪かったかもしれませんが、上記のブログ主とのやり取りをブログに掲載してくれとは言っていません。私は単に、次にこのような批判意見を書くのであれば、私に向けてではなく、パブリックに向けて、このブログに書けばいいと申し上げただけです。そもそも私にだけ向けて書いているせいか、おそらくブログ主の書いたものを読んだだけではあまりその内容はつかめないでしょう。「内輪で議論するな」というコメントはまさにその通りだと思います。このやり取りに関しては、「他者」を意識して書いていたわけではないからです。
そして申し訳ないですが、私はこれは書きたいとか伝えたいと思ったとき以外は議論はしないようにしていますので、私の返答を求められても困ります。私が言いたいことは基本的にもう上記のやり取りでほとんど書いてしまいました。また、正直にいうと、このブログ主のブログはあんまり好きではありません。もちろん、これはブログをどのように活用するのかというその人のブログ観にもよるでしょう。単なるメモ帳や日記の目的に使うのであれば、別に何の意見もありません。ただもしこのブログを他者に何かを伝えようという気持ちを持って書く、そしていろんな人が議論できるプラットフォームとして使おうというのであれば、もう少し言葉使いとその内容に気を使ったほうがいいと思います。「この本、クズ。こいつ、クソ」みたいな言い草はどうかと。たとえば、東浩紀に対してそういう判断を下すのであれば、それなりの論拠を整理して示してほしい。そういう最低限の節度がなければ、あまり出入りしたくない。私はそう感じました。
ひとつだけ、コメントに気になる誤認があったので指摘します。「欧州では、食糧を初めとした生活必需品は日本と比べて圧倒的に安い」ということです。これは全く逆です。日本の食品やその他については、100円ショップや牛丼屋を見てもわかるように安いです。イギリス、フランス、ドイツ、北欧と比べてみても、安い。デフレは十年以上も続いています。エンゲル係数も下がり続けています。ググってみたら次のようなデータもありました。http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4653.html
おそらく日本でお金がかかるのは、家賃(都会)といったものではないでしょうか。とくに地方にいる人は仕事がないから、都会に出てきても、高い家賃にバイト代が食いつぶされてお金がたまらない。これはたしかに問題だと思います。

No title

Oへ
はじめから正確にそう書くように。「次からはこれをブログで公表したらどうか」だけだと誤解します。
あと、クズなものはクズでバカなものはバカです。
読むに値しないものは読むに値しない。
あなたはどうも「論拠」だとか「論理」に固執しているようですが、そんなものを一々あげなげねばならないとは、はっきりいって衆愚主義です。
他人を足蹴にするような社会は明らかにおかしい。そしてそのような社会にしか住めない以上、どのような主張をする上でもその構造について、自分が特権的な位置を占めているという現実とどう向き合うのか?
当然構造をつくっている政治のあり方を批判すべきだし、少なくともそれに加担するようなものの書き方には敏感になるべきだ。
これで論拠は十分だし、ここから出発すべきでしょう。この認識を持たない書き手などはっきりいってゴミでカスです。
まあ、認識云々の前に「怒り」がわいてきますが。
最低限の歴史認識・現代的な問題認識・それ依然のモラルのない人間が何をいったところで、根本からずれているから議論する価値なし!
恵まれた立場にありながら、概念をもてあそんで体制を批判をしない人間が書くものも読む価値なし。
そもそもそんなものを書く人間こそ最も根本的な部分である隣人に対する礼節をわきまえていないからです。
一々根拠を挙げる必要がなく、それにわざわざそれのために割く時間は私にはありません。
ちなみに内田樹に対して徐さんが『秤にかけてはいけない』という本の98ページに批判を書かれています。詳しくはそちらをどうぞ。
また、私はこのブログで「バカ、クソ」の烙印を押しているものはそもそもその怠惰さにむかつくのもありますが、禁書目録としてもあげているつもりです。
普段私も「議論」は好きでないので、こういう機会はもうほとんどないでしょう。私も実際貧困の現場にいってみたら、国内のマイノリティや外国人の前で直接話してみたら(おしゃべりではない!)、結果は一目瞭然のことについてあなたにわざわざわかるように書いてバカをみました。ほんとうに「議論」なんてくだらないですね。
ただ、私はヨーロッパで住んだことはありませんが、こんな統計を出す前に湯浅さんの『反貧困』や姜在彦『日本の朝鮮支配の40年』を読んでみてください。
それを読んでも何も感じないのなら、私もこれ以上あなたと議論する気はありません。
プロフィール

feinrain5

Author:feinrain5
情熱を気高さが支えてくれる。その高貴な部分こそ、感動した自分自身に他ならない。

それが教養なのだ。


それがより多いかどうかで私は人の格が決まると考えている。


教養とは何も俗に言うクラシックや絵画などいわゆる「キョーヨー」の分野にとどまらない!マンガも映画も、場合によっては日常の経験まで教養となりうるのだ。


ただ、教養というに値するものはそうそうないのも事実。


現状、生き方が混迷とするこの日本において、人生に決定的な影響を与えるもの。

このブログでは、あなたにそのような貴重な経験をさせられるような作品を紹介していきたい。

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